大判例

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名古屋高等裁判所 昭和34年(お)4号 判決

請求人 吉田石松

弁護人 円山田作 外一四名

検察官 辻本修

主文

被告人は無罪

理由

第一、本件事案の概要

被告人、第一審相被告人北河芳平、同海田庄太郎の三名に対する本件公訴事実は「被告人三名は共謀の上大正二年八月十三日夜愛知郡千種町字野輪地内今池大久手両電車停留所間軌道に沿える路上において同郡長久手村大字熊張戸田亀太郎を殺害し金一円余を強奪した」というものであつて、右強盗殺人事件については大正二年八月十五日名古屋地方裁判所検事より予審請求がなされ、同裁判所予審判事は大正三年二月七日同事件を名古屋地方裁判所の公判に付する旨の決定をした。次いで同裁判所は審理の結果、同年四月十五日被告人石松を死刑に、芳平、庄太郎の両名を夫々無期懲役に処する旨の判決をなし、芳平、庄太郎の両名は直ちに服罪し、被告人のみ名古屋控訴院に控訴の申立をした。その結果被告人は大正三年七月二十一日死一等を減ぜられたとはいえ、結局芳平庄太郎と同様無期懲役に処せられ、さらに上告したが、同年十一月三日大審院の上告棄却の判決があつて、ここに前記控訴院判決は確定するにいたつた。かくて被告人は当時巣鴨刑務所、網走刑務所、秋田刑務所等においてその刑の執行をうけ、昭和十年三月三十一日仮釈放により右秋田刑務所を出所したものであるが、在監中から、出所後にわたつて前後数回に及ぶところの再審の申立ののち、昭和三十六年四月十一日当高等裁判所第四部はついにその請求を理由ありとして再審開始決定をなすにいたつた。しかるにこれに対し検察官から異議の申立がなされ、当高等裁判所第五部は昭和三十七年一月三十日異議理由ありとして、右開始決定を取消し再審請求を棄却する旨の決定をしたが、被告人はこれに対し最高裁判所へ特別抗告の申立をしたところ、最高裁判所は同年十月三十日原決定を取消し原審検察官の異議申立を棄却する旨の決定をなし、ここに当高等裁判所第四部の先きの再審開始決定の確定をみるにいたつた。しかしてこの間の、実に半世紀にも及ぶその無実の叫びに耳を藉す者からは、被告人はエドモンド・ダンテスになぞらえられ、昭和の巌窟王と呼ばれるにいたつたのである。

第二、記録の一部滅失と第一、二審判決引用の証拠

本件強盗殺人は大正二年八月十三日、いまを去る実に約五十年前のできごとであつて、第二審判決が確定したのも大正三年十一月三日であるから、本件の訴訟記録の大部分と証拠物件は、遺憾ながらすでに減失しており、わずかに予審終結までの手続に関する第一冊と、公判関係のものとしては、辛うじて第一、二審判決書をとどめているにすぎない。しかもこの第一冊の記録すら、本件再審開始決定後、昭和三十七年十二月十日名古屋地方検察庁倉庫から、ようやく発見されるにいたつたものである。しかしながら、ここに新たに発見されたこの第一冊の記録こそは、捜査の段階から予審終結決定にいたるまでの、本件事案を解明する上にもつとも重要な部分であるから、この記録が再審公判終結前に発見されたということはまさに天佑というべきであろう。しかも本件の公判関係の記録は滅失しているとはいうものの、さいわい残つた第一、二審判決にはいずれも被告人を有罪とした詳細な証拠説示がなされているので、第一、二審公判における取調の内容もある程度は、これによつてその概要を窺い知ることができる。ただそこに引用されている証拠のうち、第一、二審公判における証人の証言などに関しては、公判調書がないためその詳細を知る術もないけれども、かような証拠については反対の証拠がない以上、そこに引用されているような内容の供述が第一、二審公判でなされたものと推認することは許されるであろう。そこでまず第一、二審判決において被告人の断罪の資料としていかなる証拠が挙げられていたかをみてみよう。

(一)  大正二年八月十四日付検事の検証調書、これによると、本件犯行の現場は「愛知郡千種町字野輪地内電車軌道の東方に沿える道路」の「大久手電車停留所と今池電車停留所との略中間」であつて、被害者は「頭部、顔面ともに血染し頸部に褌を巻きつけられ、北枕に打倒れ悲惨な最後を遂げ」ており、「その傍に繭の空籠を載せた荷車一輌北進の姿勢で放置されており血液の飛沫は繭籠並びに車体の一部を染め、血染又は破損せる菅笠、提灯、手拭等は附近に散乱し尚暗紅色の血餅所々に潴溜」するという惨憺たる光景を呈していたことが窺われる。

(二)  永田栄三郎(尾張電気鉄道株式会社車掌)の予審調書、これによると同人は「大正二年八月十三日午後九時四十六、七分頃、今池を発車し、南へ進行する途中で荷車の側に人の倒れているのを発見し」ておりさらに

(三)  福岡勇太郎の予審調書、これによると「被害者戸田亀太郎は自分の依頼に基き大正二年八月十三日繭を千種の丸兵へ運搬して午後八、九時頃丸兵方を立去り」その帰途難に遭つたものであることが窺われ、

(四)  谷宝抱の鑑定書には「戸田亀太郎の死体を検するに、相当重量を有する鈍器をもつて他為的に打撲されたるものと認め得べき創傷頭部に四ケ所あつて、該創傷のため脳圧迫を起し死亡するに至つたものと認める」旨記載されておりこれによつて被害者の創傷がいずれも相当重量を有する鈍器による打撲であつてその死因が脳圧迫にあつたことが窺われる。

しかしながら、以上(一)ないし(四)の各証拠はいずれも第一、二審判決引用のいわゆる罪体事実に関するもので、被告人の本件犯行を積極的に裏付けるものではない。

(五)  小野瓢郎の鑑定書、第一審判決のみこれを引用しているが、被告人に関する部分としては、「証第十六号単衣(被告人の着衣)に存する九個の汚点中暗褐色の一小斑点は人血に起因するものと認める旨の記載」が挙げられている。被告人の着衣に人血に基因する汚点があるというのであるから、これは一見きわめて重要な証拠のようにおもわれる。しかしその鑑定書自体にも明記されているように被告人の右着衣には汚点が九つも点在しているのに、その中のわずかに一小斑点のみが人血に基因するというだけで、何人の血液に因るものであるかも明らかではない。(再審公判における鑑定人古田莞爾の鑑定によると、人血とすら断じえないものがあることはのちに詳論するとおりである)

もし、芳平が第一審判決の判示するように玄能をもつて亀太郎の頭部を殴撃し、その直後被告人がさらに尺八で被害者を乱打した事実があるとするならば、被告人の単衣にも芳平の着衣と同様相当な返り血を浴びるものとおもわれるのに、九個の汚点のうち、わずかに一小斑点のみが人血にとどまるということにも疑なきを得ないし、ことに前記(一)の検証調書によつて明らかな前掲「血液の飛沫は籠並びに車体の一部を染め、血染又は破損せる菅笠、提灯、手拭等も附近に散乱し、なお暗紅色の血餅所々に潴溜せる」惨憺たる光景と思いあわせるとき、尺八で連打したという被告人のみ、ひとり血の飛沫を浴びないということも容易に首肯しがたい。してみると、第一審判決に引用されたこの証拠が第二審判決においてその引用証拠から除外されたのも敢て怪しむに足りない。

(六)  大島直の予審調書、第一、二審判決ともこれを証拠として引用しているが、第二審判決の引用部分は第一審判決のそれより稍詳細であつてつぎのとおりである。

「自分は湯屋業であるが、大正二年八月十三日夜九時半頃浴客がなかつたから、夕涼のため表にでていた。その夜朧月夜で大抵の場所に人のおることはよく判つたが、自分方より半丁程西南に板橋があつて、そちらに人声が聞えたから見ると、一人の男が繭籠を載せた車を輓き、轅棒の左におり、その車の右側に二人の男が立つて何か話をなし自分の立つている少し西にある元古井にはいる小路のところまで来て、車輓が元古井の道の方へいこうとすると、吃りの男はこの道よりもこれを東に行き電車道に出て北に行くがいいだろう、俺も一緒に行つてやると申しました。その時吃の男の跡についていた一人の男は何とも言わず、自分の立つている前を早足で東に通過し、その男が三十間も東へ行つたころ、吃は荷車輓と一緒に自分の前を東に通つて行つた。吃の男より先に東へ通り越した男は黒色の単衣を着て草履か麻裏をはいていたが、吃の男の方が少し小さいように思つた。肩の張り具合、背恰好より考えると、自分の前を先きに通り越した男はお示しの男(被告人を示されたのに対し)のように思う旨の供述記載」とある。

第一審判決も、大島直の予審調書における右供述部分のうち、「吃の男の方が少し小さいように思つた」という点を除いて、第二審判決と大体同じ供述部分を引用していることからみて、大島直の右供述は第一、二審判決においてかなり高くその証拠価値を評価されていたことが窺われる。このことは、ことに第二審判決が公判廷においてなした芳平、庄太郎、被告人三名の身長測定の結果たる「被告人は庄太郎より約一寸、庄太郎は芳平より約一寸丈の高いのを認めた事実」を併せて証拠に挙げていることからみて十分に窺い知られる。

しかしながら大島直の語るところは、畢竟犯行当夜の午後九時半頃自宅前の路傍に立つて夕涼をしていたとき、薄闇のなかに偶然見かけた吃の男が繭籠を載せた荷車を輓いた男に道を教えており、もう一人の男が自分の前を足早に通り過ぎるのを見かけたが、その男の肩の張り具合背恰好からみて被告人に似ているような気がするというきわめて弱い程度のものである。そのことは右判決の引用部分だけからは必ずしも明らかでないが、大島直は右予審調書において「吃の方が少し小さいように思いますが、確つかりしたことはわかりません。私どもは湯屋商売ゆえ、人相、着衣等は直きに気がつきますが、当時は気をとめて見ていなかつたので確つかりした覚がありません」と語り、何気なく見ていた自己の観察について、とくに背丈などに関しては、まつたく自信のないことを卒直に表明している。また大島直は検事の大正二年八月十四日付証人訊問調書でも被告人を示されたとき、「背丈け等は車輓の前を通り越した男に似ておりますが、この男であると断言することは到底できません」と兇行の翌日の取調ですらすでに自信のもてないことを語つている。してみると、大島直の予審調書も、被告人の本件犯行を積極的に裏付ける証拠としては有力なものとはいえない。

第一、二審判決が被告人の断罪の資料として挙げているのは芳平、庄太郎、被告人の各供述(供述調書を含めて)をのぞくと、以上に尽きている。したがつて本件はこれらの者の供述以外には、これというなんら適確な証拠のない事案であることが窺われると同時に、同人等の供述の詳細な検討の必要な所以が明らかにされたであろう。

第三、芳平、庄太郎の各供述について

芳平、庄太郎の各供述を検討するに先きだち、本件犯行がいかにして発覚したかを一瞥しておくことは、同人等の供述についてその証拠価値を見究める上にきわめて重要なことのようにおもわれる。

(一)  本件犯行の発覚の端緒

巡査藤井勇城ほか四名作成の大正二年八月十四日付捜査報告書によると、本件発覚の端緒は大体つぎのとおりである。まず被害者の死体の側にあつた荷車に繭の空籠があつたから、被害者は繭を運んできてその帰途殺害されたものという想定のもとに、右藤井巡査等において繭問屋をあたつてみていた。すると人相着衣繭籠の印などから、被害者が行つた繭問屋は千種町字古井坂の丸兵であることがわかり、同時に被害者の身元も判明した。被害者戸田亀太郎は大正二年八月十三日午後八時頃丸兵方へ繭を輓いてきて、同夜九時頃上野村萱場へいく道を聞いて同家を立ちいで、そこからわずか数丁しか離れていない本件現場で難に遭つたことがわかつた。そこで丸兵方から現場にいたる沿道の各戸について、当夜の通行人の状況を聞き込み中、その道路の北側にある大島湯という湯屋の経営者、大島丈太郎の妻直が同夜九時三十分頃自宅前で夕涼をしていたとき、千種町通り筋から来た三人連れの男を見かけたことを耳にした。直の言うには「うち一人は荷車を輓いており、瀕りに何か話していたが、最初は要領を得なかつたけれども、自分の立つていた宅前より南約十間程のところに十字路があるが、そこで荷車輓は萱場へいく道を訊ね、吶弁の男がこちらより行くが便利であると勧めて、その荷車輓を伴いくる時の話は明瞭に聞こえ、もう一人の男は十字路の辺から先きに追越し、十間程隔てて行き、自分の立つている前を通つた。荷車輓の右にいた吶弁の男は頭髪稍長く、顔角立ち頬骨高く色黒く中肉の背で、先きへ行つた男は人相はわからないが、右側にいた者より年令稍長じ、丈も高かつた」というのである。ところが吶弁の男が教えたという萱場への道は順路でないので、その吶弁の男こそ加害者と推測して捜査中、現場から約二丁を隔てたところに、大西仲蔵なる者の新築中の硝子製造工場があり、その工事場の番人に海田庄太郎、北河芳平の両名が雇われているが、そのうち庄太郎は吶弁であることがわかり、同人に訊ねてみると、当夜萱場への道を教えたというので、その状況を糺すと、「言語曖昧にして要領を得ず」また芳平に訊ねても、「両人の言符合せず、内心大いに恐れを抱きおり頗る不審」の様子が認められたので、本署に連行したというのである。

これによつて明らかなように、本件ははじめから三名の容疑者があつたのではなく、むしろ大島直が現場附近で見かけた荷車輓と同行した二人の男を追求するかたちで捜査が開始され、そのうちの一人が吶弁であつたということからまず庄太郎が、ついで同人と同じ番小屋に起居している芳平が、いずれも言語の曖昧なところからつよく容疑線上に浮かびあがつたものである。この点は本件を解明する上に看過すべからざる事実とおもわれる。

(二)  芳平に対する検事の被告人訊問調書

本件においてまずその犯行を自供したのは芳平であつて、その自供は犯行の翌日たる大正二年八月十四日の夜のことである。しかして同人が自供するにいたつた経緯については、つぎのような注目すべき事実がある。

巡査森輝雄作成の捜査報告書(大正二年八月十八日付)によると、同巡査が大正二年八月十四日午前二時三十分頃兇行現場に臨み、附近の田畑を捜査中「現場より約三、四十間東南方の畦畔に小石砂交りの土砂があり、そこに現場の方向に向いた左足の新しい足跡があり」、その足跡が深く踏みこまれているところからみて普通の歩行とは異なつており、もしかすると加害者が兇行に先きだち、被害者を追跡するためこの畦畔を疾走するとき、この足跡を印したのではないかと思われたので、「稲葉で左足の拇指先から跟にいたる長さ及び横巾の広さを測り、その稲葉を切つて持ち帰えり」、同日午後七時頃容疑者の一人芳平の足型をとり、右稲葉と比較したところ、符合するので芳平を詰問すると、同人は「にわかに顔面蒼白となり身体に震いを生じ、殆んど失神状態となり」、その夜ついに本件犯行を自供するにいたつたというのである。

かような芳平の本件犯行の自供の経緯からみて、その自供は同人がもはや到底遁れないものと観念し、絶望と良心の荷責に堪えかねて、兇行の翌日になしたものであることが窺い知られ、その自供の信憑性は相当高く評価されてしかるべきものとおもわれる。

ところで芳平は同人に対する検事の被告人訊問調書(大正二年八月十四日付)において、逐一庄太郎との共謀による二人犯行を自供しているが、ここでは被告人のことについては一言も触れていない。庄太郎、芳平両名間における共同謀議についても、実行行為の分担についても、ここで芳平の語るところは、以下みるようにいささかも矛盾撞着なく、まことにすつきりした内容のものである。すなわち芳平は「大久手今池間の電車道の近所に大西方の小屋がありまして、自分と庄太郎とが毎晩そこに寝ることになつていました」と前置きし「昨夜(大正二年八月十三日)庄太郎が古井坂の大西本宅へ夕飯を食いにいき帰つてきまして『近頃良い仕事がないが、只今繭を売つて帰る人があるから、これより行つてとつてやろうでないか、良い仕事になる』と言つたので、自分は玄能、庄太郎は鑿を持つてとびだしていきました」旨、庄太郎との共同謀議について語つている。芳平はさらに語をついで、兇行の模様についても「自分が車を輓いていく人の後方から、玄能で二回その人の頭部を力をこめて打つと、その人が『助けて呉れ』と叫びながら、その場に仰向けに倒れましたが、また玄能をもつてその人の頭部を二、三回打ちました。庄太郎がその人の帯の財布を巻いてある辺を切り、自分が財布をとりました」と包み隠すところなくのべ、芳平が被害者の倒れる前に二回、倒れてからまた二、三回いずれも玄能で殴つたことを認め、そのほか被害者の帯を切つたのが庄太郎、財布をとつたのは芳平と犯行現場において両名の分担した行為を明らかにしている。それから両名の小屋へ戻るまでの行動についても、芳平は「その時今池の方から電車がきましたので、二人とも暫く傍の畑の中に隠れており、電車が通り越してから、庄太郎と二人で倒れている人を持ち直し自分が褌を外ずし、庄太郎がその首に巻きつけ、二人とも小屋の方へ帰りました」とのべている。芳平はさらにどんな考えで小屋を出たかと問われて、「庄太郎に誘われ人を殺して金をとる積りで出かけたのであります」と素直に強盗殺人の犯意を認め、また、とつた財布の特徴や、その中味、財布の行方についても「現場から小屋へ帰り、自分が財布を取り出して金を調べてみたところ、二十銭銀貨五個、十銭銀貨二個計一円二十銭ありましたが、庄太郎が俺のところに一時寄越しておけと言いましたから、同人に渡したので、財布は同人が何処かに始末しております。その財布は…………小さき縞柄に見えました。首にかけるような長い青い紐がついていました」とのべ、そして最後に「盆がくるし、主人の家では金は借りれないし、小遣に困り左様な考になりました」と犯行の動機についても語つたのである。そこで重ねて検事から戸田亀太郎を殺害して金を強取する考で玄能をもつて同人を殴打したに相違ないかと念を押されて芳平は、「それに相違ありません」と答えそれでは庄太郎と共謀の上該犯行をなしたに相違ないかとさらにだめを押されても、「庄太郎と相談の上共に出かけたに相違ありません」と庄太郎との二人犯行を認め、動揺するところがなかつたのである。

かように芳平の当初の自供のうちには、被告人の名はその片鱗も現われていないことがまず注目される。さてしからば、当時庄太郎は捜査官に対しどのような供述をしていたのであろうか。

(三)  庄太郎に対する検事の被告人訊問調書(大正二年八月十五日付)

庄太郎は検事のこの第一回の取調において、頑強にその犯行を否認し、自分は犯行の現場に行つていないから、兇行の模様については何も知らないが、石ヤンなる者が芳平と二人で敢行したものとおもうという趣旨のの、以下みるごときまことに曖昧な供述している。

まず八月十三日大西方から帰る途中、繭籠を載せた荷車輓に会つたことはないかという検事の問に始まつているが、これに対し「大西方を出て、丸兵(繭商)の前を通り電車通に出て、穀屋の角のところで荷車輓から、萱場へ行く道は何処かと訊ねられたので、その道筋を教えてやり、自分も牛乳屋のところまで一緒に行き、………自分の番小屋にいく所で別れました」と答え、庄太郎もさすがに荷車輓に道を教えたことだけは認めている。そこで引きつづきその時ほかに連れがあつたかと訊ねられて、庄太郎は「初め穀屋の角で荷車輓と話する際、借家の側の半丁程距つたところに石ヤンがおりました。自分等がいく七、八間前にその者が行きました」と注目すべき供述をなし、ここに石ヤンなる者をはやくも登場せしめている。さらに荷車輓を殺したことはないかと訊ねられると、庄太郎は「その荷車輓に分れて番小屋に帰ると、芳平が『遅かつたなあ』といいました。そこで自分は『今荷車輓を送つてきた。繭を買いだしにいく者で、石ヤンが居つたらやるだろう、ただではおくまいに』といいましたところ、芳平は『人が居つたか』と聞きますから、『石ヤンらしい人が車輓についていた』というと、芳平は早速とび出していき………自分も後から行きました」と、趣旨はなはだ鮮明を欠く呆けたような供述をしている。しかし庄太郎は先刻七、八間前を歩いている石ヤンの姿を見たというのであるから、芳平に対し「石ヤンが居つたらやるだろう」とか「石ヤンらしい人」が車輓についていたと言うのはまことにもつておかしな話である。この点について検事の追及をうけ「石ヤンが居ることは知つていましたが、話の都合上フツト石ヤンが居ればと申したのであります」と、いま会つたばかりのはずの石ヤンのことを忘れていたような奇妙な弁解をしている。庄太郎はさらに語をついで「殺害のあつた現場から一丁位のところで、芳平が自分に財布を渡しましたから、どの位入つているかと聞きますと、一円二、三十銭位だと申しますから、欲しければ誰でも持つていけと芳平のところに投げてやりました。しかし芳平がぐずぐずしていたのでその財布は石ヤンが持つていきました」とのべ、庄太郎自身芳平の後からついていつたことを認めながら、犯行現場の模様については語ろうとしない。そこで検事から芳平とともに荷車輓をハタいたのではないかと問われると、「自分は一丁位手前に控えていましたので、荷車輓を殺したのは芳平と石ヤンであります」とまことに苦しい答をしている。芳平の後からとびだして行つた庄太郎が、何故現場より一丁位手前に控えていたのか理解できない。

庄太郎は石ヤンのことについては「氏名は分りませんが大阪の者で、本年(大正二年)五月頃守山水道工事の人夫に来ていたので自分と知合になつた。同人は強姦や喧嘩をする人で自分よりずつと上手の者でありますから、自分もその者には服従しておりました」と語り「一昨夜荷車輓の前をその石ヤンが行くので、これは同人がその荷車輓についている以上、何処かでその荷車輓をタタく考であろうと思つた」というのである。しかしここで注目すべきことは庄太郎が石ヤンなる者の氏名を知らないと供述している点である。被告人もなるほど石ヤンと呼ばれていたことは明らかであるが、被告人のことなら庄太郎も同じ硝子職人仲間として旧知の間柄であるから、被告人の氏名を知らぬはずもないし、被告人が庄太郎の言うような経歴の持主でもなければ、また無頼の徒でもなかつたことはのちにのべるとおりである。してみると庄太郎の言つた石ヤンなる者が、庄太郎の意中において、その当時果して実在の人物として語られたかどうかはなはだ疑わしい。

しかしながら、庄太郎の右のような供述は、当時捜査官が抱懐していたとおもわれる「車輓の先きに行つた男」に関する疑惑と絡みあつて、捜査の重点は一転して石ヤンなる者に向けられたことは容易に推測し得られる。

かくて検事はその前日の十四日の取調において、庄太郎との二名だけの共同犯行を自供した芳平を、八月十五日庄太郎にひきつづいて調べ直している。

(四)  芳平に対する検事の第二回被告人訊問調書(大正二年八月十五日作成)

芳平はこの取調において、その前日になした庄太郎との二人犯行の自供をはやくも飜えし、本件犯行に石ヤンなる者の介在することを口にするにいたつたのである。まず共同謀議の点について、「自分が番小屋にいると、庄太郎が帰つて来て言うには、『石ヤンに今会つたら近頃良い仕事もないが、いま繭買が繭を売つて空籠を輓いていく奴があるから、バラそうと思うが、お前のところにいる男はお前の友達だろうから、あの男にバラして貰つてくれと頼まれてきた。バラせばどうせ後で割り前は呉れるから貴様ひとつやつてくれ。俺も一緒に行くから』と言いましたから悪いとは知りながら不図悪い気を起しました」とのべている。つまり芳平は石ヤンから直接繭買を殺すことを頼まれたというのではなくして、庄太郎を通じて頼まれたというのである。しかしながら人を殺して金を取ろうというような重大な決意をした者が、これを決行するについて相手方の友達というだけで、氏名さえも知らない者にその意中を打明け、このようなことを頼むということは余りにも不自然である。ことに繭買は通りがかりの者であつて、石ヤンがこれを尾けていたということであると、石ヤンが自ら手を下さないなら、庄太郎にお前ひとつやれとでも言うなら格別「お前のところにいる男はお前の友達だろうからあの男にバラして貰つてくれ」と言つたというようなことは余りにも迂遠にして悠長なはなしといわざるを得ない。庄太郎の供述のうちにも、芳平の右供述に符合するような供述の見あたらないことはもちろんである。

もしまた、ここで芳平の言うような事実があつたとするならば、同人は先きの検事に対する第一回の被告人訊問において何故これを語らなかつたか疑なきを得ない。何となれば石ヤンこそ、本件強盗殺人の首謀者ということになるのであるから、このような大罪について、芳平が文字通り自らの首をかけてまで、石ヤンのためにこれを隠してやらねばならなかつた如何なる理由も発見できないからである。芳平は犯行の模様についても、つぎのように前回の取調におけると著しく相違した供述をしている、「石ヤンが車体の後方約三尺許りのところを行きおりました。自分は少し許り後よりついて歩きましたが、間もなく車体の左側に廻り被害者の後方から、携えていた玄能で二回続けざまに殴りつけますと、『助けて呉れ』と悲鳴を挙げつつ少しよろめいて、籠の方にぶつかつて仰向けに後へ倒れました。すると石ヤンが何かわかりませんが、手に持つていた物で倒れた男の頭の辺を二つ三つ殴りつけました。庄太郎は被害者の帯を切り、同人の褌を首に巻きつけました」というのである。芳平は前回の検事の取調では、被害者が倒れてからも、自ら玄能で二、三回その頭部を殴打したとのべながら、ここでは被害者が倒れてからその頭部を二つ三つ殴つたのは石ヤンだというのであるが、もしそうだとするならば、いかなる理由があつて、石ヤンのしたことを芳平が自らかぶるような供述を前回の取調において敢てしたか解するに苦しまざるを得ない。しかも芳平は石ヤンが殴打した物についてここでは単に「手に持つていた物」というだけで、それ以上何らの説明もしていないことが注目される。また石ヤンが「手に持つていた物」がどうして何かわからなかつたのであろうか。兇行後三人とも番小屋に帰つたというのであるから、石ヤンが兇行に何を使つたかぐらいは兇行のときにわからなかつたにしても、後でわからぬ道理がないようにおもわれる。

芳平は兇行後の三名の行動についても、つぎのように前回のべたところと相違した供述をしている。

「財布は自分が番小屋まで持ちいき、三人で勘定してみると、銀貨で一円二十銭ありました。石ヤンが一時つかわして呉れと言つて、財布ぐるみ持つて直ぐ出ていきました」と。芳平がここでのべているように取つた財布は石ヤンが財布ぐるみ持つていつたというのが真実だとするならば、前回の取調で「庄太郎がその財布は『俺に一時寄越しておけ』と言つて持つていつたから、同人が始末しているものとおもう」というような庄太郎に不利益な事実を何故ことこまかに供述したのであろうか。芳平は庄太郎とこそ同じ番小屋に起居している親しい仲であることが窺われるが、しからば石ヤンなる者とどのような関係にあつたというのであろうか。この点について芳平は「石ヤンとは何処の人か知りませんが、五、六日前に番小屋へ庄太郎を訪ねてきて、親方に使つてくれるよう頼んでくれと言つたので、庄太郎が親方に話したところ、今はまだ仕事も開始せんから必要ないと断られました。その際庄太郎の言うには石ヤンは貴様の顔を見れば知つておると言つていたといいましたが、自分は何時何処で会つた人か覚がなく、従つて別段話もいたしませんでした。やはり硝子職工とは承知しておりますが、住所も氏名も知りません」とのべている。つまり芳平としては石ヤンという硝子職工が就職の世話を庄太郎に頼みに来たことがあつたが、それ以前には会つた覚がなく、氏名も住所も知らぬというのであるから、そんな何の関係もない男のために事実を曲げてまで自分自身や、親しい庄太郎に不利益な供述をするはずがないようにおもわれる。もつとも芳平は「石ヤンはこういう悪いことをしたのだが、俺のことは決して口外してはいかぬ」と固く口止めされたようにいうけれども、こんな口止めぐらいで、強盗殺人の大罪について文字通り自分の首をかけてまで、石ヤンの犯行をひた隠しに隠す道理がない。かようにみてくると、芳平は庄太郎が石ヤンなる者の介在を主張しだしたことを察知してこれに口を合わせようとした疑がもたれてくる。

しかし検事の石ヤンに関する追及はいよいよ厳しさを増し、庄太郎に対する第二回の取調にそれがよく現われている。

(五)  庄太郎に対する検事の第二回被告人訊問調書(大正二年八月十五日付)

この取調は、一昨夜(八月十三日)石ヤンなる者と何処で出会つたかという問に始まつている。これに対し庄太郎は「夕飯を食べに大西方へ行き、門前に佇んでいると、石ヤンが西の方から来て今晩はと挨拶し、『今晩泊りにいく』と言いました」と答えている。そこで検事から、前回は石ヤンが荷車輓の後をついてきたのに会つたとのべたではないかと追及されると「左様な話はありませんでしたけれども、同人は萱場附近をウロつき廻つているものでありますから、荷車輓をつけて来たものと考えます。それは自分が番小屋の方に帰るとき、やはり電車道の処に一緒にいたから左様に考えたのであります」と、のらりくらりとした、趣旨はなはだ不鮮明な供述をしている。

検事からさらに荷車輓の首に褌を巻いた覚はないかと訊ねられると、「左様であります、倒れている荷車輓の首に褌を巻きつけたに相違ありません」と、ここでは至極あつさりと被害者の首に褌を巻いた事実を自供したのであるが、前回の検事の取調では現場から「一丁位手前に控えて」いたので現場の模様は知らないとのべていたことと対比して注目すべき供述の変化である。そこで検事から何のために褌を巻きつけたかと問われると、「石ヤンが巻きつけよと言つたから巻いたのであります」と、褌を巻いた目的を問われているのに巧にこれをかわしている。

庄太郎はさらに検事から、石ヤンが荷車輓に対し兇行に及んだことは相違ないかと問われると、「相違ありません」と答えているが、どのような方法で兇行に及んだかは一言も語つていない。兇行現場へ行かなかつたと弁解していた前回の取調なら格別、ここではすでに現場に行つたことを認め、石ヤンの兇行を肯定するからには、石ヤンのどのような行動を目撃したか、その光景について具体的に語るところがなければならぬ道理である。事案の性質からいつても、検事が庄太郎のこの「相違ありません」の一語に満足し、右のような点を聞きのがすはずがないから、おそらくは厳しい追及が行われたものと想像されるのであるが、庄太郎はついに默して語らなかつたのであろうか。しかしすでに石ヤンの犯行を肯定する供述をしながら、その具体的な行動についてのみ、これを隠さなければならぬ理由はない。また庄太郎は石ヤンの当夜の服装について訊ねられると、「黒の単衣を着て半ズボンを履き、帽子をかむつていました」といとも詳細な供述をしているが、ここで石ヤンの持ち物について、一言も言及していないことが看過されてはならない。芳平がすでに、石ヤンは何か「手に持つた物」で被害者を殴つたと、同じこの十五日の取調においてのべているのに、庄太郎に対し石ヤンの持ち物について問われないはずがないからである。こうしたところに本件事案を解明する鍵が秘められているのではなかろうか。

(六)  庄太郎の第一回予審調書(大正二年八月十五日付)

本件においては兇行の翌々日たる八月十五日にはやくもまず庄太郎から予審の取調が開始されている。庄太郎は兇行当夜のことについて、先ず「仲蔵方へ夕食にいき……………表へ出たら、吉田石松が来て今晩貴様の工場に泊めてくれと頼み……………古井坂をのぼつていつた」と前置きしているが、これまでの石ヤンは、ここでは完全に被告人吉田石松に置きかえられている。庄太郎はそれから被告人の後についていき、途中で荷車輓に道を質ねられて教えたというのであつて、「その時、凡そ五、六間隔つたところに石松が立つていた。自分は同人に聞えるよう、わざと大声で道を教えたから、石松も荷車輓のいく道を知り何とかするだろうと思つた」とのべている。しかし庄太郎が「わざと大声で道を教えた」というからには、同人において何か期するところがあつたことになるが、庄太郎としてどのようなことを考えていたかが明らかでないし、また被告人が庄太郎の大声で荷車輓のいく道を知つたからとて、どうして被告人が「何とかするだろうと思つた」のかも語られていない。庄太郎としては、被告人が「何とかする」とは、一体どんなことをすると思つたのか解しがたい。まことに曖昧な供述といわねばならない。

庄太郎はさらに「荷車輓は湯屋の前で横道へ入ろうとしたから、もし横道へ入れば、石松が先きに聞いていた道筋と異ることになり、同人がことをなすに不便と思い、道が違うとて荷車輓をもと教えた道へ引きだしたた」とのべ、ここでも被告人が「ことをなすに不便」と思つたというようなまことに漠然とした表現をなし、この言葉自体からは被告人が何をするのに不便と思つたのかわからない。

庄太郎はさらに語をついで、「自分は石松が今から何かするものと思つたから製造所へいき、芳平に対し石松が繭の空籠を輓いた車輓を尾けていつている由を話した。すると芳平はすぐ………玄能を取りだし、車輓を追いかけたから、自分も工場を出てその後についていくと、車輓が途中に打ち倒れていた」とのべている。しかし庄太郎が芳平に被告人が荷車輓をつけたことを話したからといつて、ただそれだけではどうして芳平が玄能をおつとり刀に飛びだしていき、庄太郎までその跡を追つていつたのか皆目わからない。もつともこの三名の間に予め共同謀議ができてでもいたなら格別、しかしそれならば、その謀議が何時、何処でどのようにして成立したかが明らかにされねばならぬ筋合である。庄太郎がここで語つているところは、謀議成立の事情としては余りにも曖昧模糊とした供述といわねばならぬ。

庄太郎はさらに語をついで、車輓の倒れていた現場の光景につき「自分がいくと、車輓はすでに倒れていて、芳平はその傍らにポカンと立つており、石松は車輓の頭の辺を抱え、腹這いのような風になつていた」と語り、それからの現場における三名の行動について、石松が『何をしている、早くやらんか』と言つたから、自分は車輓のすでに解けていた褌の先きをひつ張り、これを石松に渡した。すると石松がその端を倒れていた車輓の口か咽喉の辺に当てたので、自分は褌をその頸の下から一重か二重廻わし、石松がその余りの褌でギユツと締め、もうこれでよいと言つた」というのである。庄太郎の右供述がここではかなりの具体性をもち、犯行現場ことに、被害者の状況を見た者でなければのべられないような内容をもつていることは注目に値するのであるが、しかし被告人の行動について語るところは相かわらず漠然としている。芳平が被害者の倒れているそばに呆然として突つ立つていたということは大いに肯けるが、「石松が車輓の頭の辺を抱え、腹這いのような風になつていた」とは一体どうしたことを言うのであろうか。しかももし被告人が、玄能で頭を殴ぐられ血まみれになつていた被害者の頭を抱え、腹這いのようになつていたとするならば、被告人の着衣が鮮血にまみれない道理はないが、被告人の当夜の着衣(証第十六号)にそのような人血の附着した形跡のないことはのちにのべるとおりである。(前掲小野鑑定には「九個の汚点中一小斑点は人血に基因するものと認める」とあるけれども、古田鑑定に徴し人血に基因するという点の採用に値しないことはのちに詳論する)

庄太郎はさらに語をついで、「石松は自分に尾いて製造所へ来るため、隣家の軒下へ来て言うには、財布は芳平が持つているが、今夜のことを人に云うてはならん。もし判つたときは、云つたのは貴様に相違ないから、監獄を出たとき第一に貴様を殺すと言いおいて、覚王山の方へ行つてしまつた。その後へ芳平が来たので財布はと聞いたら、石松が持つて行つたと言いました」とのべている。庄太郎は被告人が製造所の隣家の軒下で口どめと脅し文句を言つたというのであるが、庄太郎の供述によるも、これを聞いたのは同人だけのようであるから、芳平の供述からその真否の手がかりを掴むこともできないが、芳平だけがどうしてその場所へおくれてきたかも明らかにされていない。どうも庄太郎が被告人の行動について語ることは、芳平の居合わさないときのものが余りにも多いことが注目される。しかもたまに、芳平のいる場所における被告人の行動について語るときは、芳平の供述とさつぱり符合しない。

財布についても、ここでは財布は芳平が持つていると被告人自身語つたようにいうけれども、庄太郎は検事の第一回の取調ではさきにのべたように、庄太郎自ら芳平の渡した財布をうけとり、中味が一円二十銭位と聞いて、欲しければ誰でも持つていけといつて、芳平のところへ投げてやつたようにのべていたのであるから、その供述の変転ぶりには驚かざるを得ない。

(七)  芳平に対する第一回予審調書(大正二年八月十五日付)

本件兇行の翌々日たる大正二年八月十五日庄太郎にひきつづき、芳平に対する第一回の予審判事の取調が行われたのであるが、芳平は前回の検事の取調においてなした供述を種々変更し、まず共同謀議の点についてつぎのような注目すべき供述をなすにいたつている。

「その夜(八月十三日)仲蔵の工場内におりますと、石松が走りこみ『今夜はエイ仕事があるから手伝つてくれ』といつたので、『俺はこれまで悪いことをしたことはないが、貴様に頼まれりや仕方がないわ』と答えました。すると、石松は出ていき、庄太郎がまた走つて来て『今エイ仕事があるから行つてくれ』と云い、自分も行くについては空手で行つても仕方がないから………玄能………を持つて出た」というのである。つまり当夜大西仲蔵の工場へ、最初は被告人自身走りこんできて、右のように手伝つてくれと芳平に頼んだというのであるが、かようなことは同人のこれまで一度も口にしたことのない事実である。芳平は前回の検事の取調(第二回被告人訊問)では、庄太郎が芳平のところへ来て、石ヤンからいまそこをいく繭買をお前の友達(芳平)にバラして貰つてくれと頼まれてきたから手伝つてくれと言つたように語つていたのである。被告人が当夜芳平のところへ、繭買殺しを頼みに来たかどうかというようなことは事柄の性質からいつて、一昨夜のことでもあり思い違いなどのありえようはずのないことである。芳平はすでにみたように、最初は繭買殺しを庄太郎に誘われたと言い、つぎには石ヤンから庄太郎を通じて頼まれたと言うようになり、ここではまた被告人自身が誘いに来たというのであつて、この八月十四、十五両日の三回の取調においてかくのごとくその供述が変更し、しかもそれが次第に被告人に不利益な方向に変つていることが看過されてはならない。

それはともかくとしても、ここで被告人が言つたという「今夜はエイ仕事があるから手伝つてくれ」とは一体どういう意味か言葉自体からはわからない。それにもかかわらず芳平が「俺はこれまで悪いことをしたことはないが、貴様に頼まれりや仕方がないわ」と、何か悪いことをするのを心ならずも承諾したような口吻を示しているけれども、それならば芳平は「エイ仕事」をどのような悪事をすることと考えたのか、またどうして被告人の言葉をそのように理解したのかも語つていない。のみならずその「エイ仕事」に何か悪いことをするような意味がこめられていたとするならば、これまで「悪いことをしたことのない」という芳平が何のつき合いもない、顔すら知るか知らずの仲の被告人に対し、「貴様に頼まれりや仕方がないわ」と不承不承悪事をはたらくのを承諾したことにも容易に首肯できないものがある。

芳平はさらに、本件兇行現場の模様についても、驚くべき供述の変転ぶりを示している。

「石松はその荷車の跡を尾けていき、自分に対し早くやツつけよと言いましたから、玄能を振り上げ、力一杯二つほど荷車輓の頭を殴つたら、その車輓は後へ倒れる前一度荷車に積んだ空籠に頭を触れ、そのまま仰向きに南枕となつて倒れました。その時荷車輓はウンウン唸つていましたから声が聞えてはならんというところから、その場へ来た庄太郎に云いつけ、車輓の褌をとりこれを口のところへ巻きつけ、もうこれでいいと申し云々」

ここでは芳平は最初玄能で被害者の頭を殴る直前、被告人が早くやツつけよと指図したというのであるが、このようなことも芳平が一度も口にしなかつた事実である。ここで語るところが真実だとするならば、検事の取調をうけた際何故このことを隠していたのであらうか。そしてここでもう一つ注目すべきことは、芳平が前回の検事の取調のとき始めて言いだした被告人の「何か手に持つていた物」で被害者の頭を二つ三つ殴つたという事実については一言も触れていないことである。被告人が被害者を本当に殴撃した事実があるならば、芳平がこれを言い落とすともおもわれないからである。しかるに芳平は予審判事から、石松は何を持つていたかと水を向けられても、「何を持つていたか確つかり覚がありません」と答えるだけで、一向被告人の殴撃の事実にふれようとしないので、それでは石松は倒れた荷車輓を殴つたことはないのかと、念を押されると、ようやく前回の供述に気がついたらしく「今何を持つていたか覚がありませんと申したのは間違で、石松は自身に持つていた尺八で倒れていた荷車輓の頭を三つ許り殴りました」とのべ刮目すべき供述の変転ぶりを示している。たつたいま「何を持つていたか覚がありません」と、前回の検事の取調のときと同じ供述をしたかとおもうとその途端に掌を返すようにこれを取消し、被告人が尺八で殴つたと供述したのは一体どうしたことであろう。その取消の寸前まで被告人の手にしていた物が判らなかつたのに、どうして尺八ということが、判つたのであろうか。巡査森輝雄ほか三名の搜査報告書によると、あたかもこの日八月十五日に被告人の雇われ先の渡辺兼吉硝子工場で被告人の所持品のうち「尺八に血痕と認むべきもの附着しおるを発見し」犯行に用いられた疑ありとしてその尺八が押収されていることが窺われるが、してみると、押収された被告人の尺八に血液が附いているという予断(それが血液でなかつたことはのちに鑑定の結果明らかになつている)のもとに、芳平の取調が行われ、同人も取調官の意に迎合してかかる供述をした疑が多分に存するものといわねばならない。また芳平の右供述によると、被告人が庄太郎に云いつけて車輓の褌をとらせ、これを口のところへ巻きつけたというのであるが、芳平はその変転する供述のうちにも、褌を被害者の首に巻いた者については、前二回にわたる検事の取調においては、いずれも庄太郎のように語つていたのである。しかもここでは庄太郎が褌をとつたのも、被告人の指図であつたようにいうのであるが、これまた芳平がここで始めて言いだした事実である。

芳平はさらに語をついで「そこへ電車が来たから三人とも一時身を隠くし、電車が通過してから自分が懐中改めをしたが、縞の巾三寸五分、長さ約六寸ばかりの財布に二十銭銀貨五個、十銭銀貨二個ありました。すると石松が、俺は東京へ行かねばならんので、旅費の足しにするから呉れよ。貴様等には追つて入合わせをつけると言つたので、財布のまま渡してしまい、それから三人とも工場へ来て云々」と、芳平自ら一旦被害者の財布をとり中味も調べたが、その場で被告人に巻きあげられたように言うけれども、薄暗い、しかも兇行の現場で、財布の中味まで数えるというようなことは容易に首肯しがたいから、やはり番小屋に持ち帰つて、中味を調べたというこれまでの供述の方が真実にちかいものとおもわれる。してみると芳平が何のためにこのようなことまで真実を語ろうとしないのか解するに苦しむ。

(八)  芳平に対する第二回予審調書(大正二年八月二十日付)

芳平については大正二年八月二十日予審における第二回の取調が行われているが、同人は共同謀議の点について、またもその供述を飜えしている。

「十三日夜九時半頃………小屋で………寝ておりました。すると庄太郎が申すには、今繭売りが荷車を挽いて電車道を北へいくから、バラして金をとるため、石松が行つておるから手伝に行つてくれと申し云々」とまことに注目すべき供述をしている。ここでは被告人ではなく、庄太郎が来て手伝を頼んだというのであつて、しかも繭売りをバラして金をとることの手伝だというのである。そこで予審判事から、前回の予審の取調では、芳平のところへ「最初石松が来て『今夜はエイ仕事があるから手伝つてくれ』と頼んだ」とのべたではないかと追及されると、芳平は「それは石松が来たのではありません」と、憶面もなく前言を取消し、語をついで「庄太郎が来て本日申すごとく、今繭売りが荷車を挽いて電車道を北へ行くから、少くとも百円や百五十円は持つておるから、バラして金をとるため石松が行つておるから手伝つてくれと言つたのであります」と、ここで、はつきり石松が芳平のところへ来ていないことを認めている。しかしそれならば、芳平はどうして前回の取調で石松が最初走りこんできて「今夜よい仕事があるから手伝つてくれ」と言つたとか、芳平が石松に「貴様に頼まれりや仕方がないわ」というと、石松がでていつたとかいうような、ありもしない被告人との問答についてまで出鱈目な供述をしたのであろうか。こうした具体的な内容のある供述は、単なる思い違いなどでなされる道理がないからである。

芳平のこのような目まぐるしいまでに変る、被告人の行動に関する供述には、まつたく唖然たらざるを得ないのであるが、そこで予審判事も、一体石松を本当に知つているのかといまさらのような問を発している。これに対し芳平は「その日より七、八日前、自分の工場へ使つてくれと言つて一度来たことがありますから知つております」と答えているが、ここで芳平がはしなくも洩した「一度来たことがあるから知つている」という供述は、のちに触れる庄太郎、芳平両名の、被告人が四回ほど番小屋に泊つたことがあるという供述と対比して興味ふかきものがある。

さらに芳平が、本件兇行現場における三名の行動について語るところは、大体第一回予審の取調のときと同じであるが、被害者の褌を外ずした者については、前回は庄太郎とのべていたのに、ここでは芳平自身のように供述し、本件における同人の検事に対する最初の自供のときの供述に戻つていることが注目される。

芳平は被害者の財布については、「死体の側へいき、自分が荷車挽の傍に落ちていた、うち造りの縞の財布を拾つたところ、石松のいうには、『お前等二人に分けぶんをやらねばならんが、一時俺が預る』というのでこれを渡しました」とのべている。これまで芳平自身懐中改めして財布をとつたことを認めていながら、ここでは死体の傍に落ちていたのを拾つたというのである。その拾つた財布も、被告人がその場で芳平の手から巻きあげたようにいうのであるが、予審判事からすかさず、財布の金を何時何処で数えたか、よく考えて申しのべよと注意されると、忽ち「自分が拾いとり、庄太郎や石松に対し、ここに財布があつたといつて、自分の懐中にいれて小屋へ帰り、ランプの明りで数え云々」と慌ててその供述を改めている。

(九)  庄太郎の第二回予審調書(大正二年八月二十日付)

庄太郎に対しては大正二年八月二十日、芳平の右取調にひきつづき予審における第二回目の取調が行われている。

証第一号(車輓の褌)を示し、これを知らないかという劈頭の問に対し、庄太郎は「その場へ実際行つておりませんから判りません」と答え、先回の取調で、しからば何故現場へ行つたとのべたかと追及されると「警察では三人で現場へ行つたと言いましたから、左様言わねばいかんと思い申しましたが、事実は行つておりません」と苦しい弁解をしている。しかし、もし庄太郎がここでいうように、本件兇行の現場へいつていないとするならば、前回の予審の取調において供述した現場の光景、ことに被告人が「車輓の頸の辺りを抱え、腹這いのような風になつていた」とか、芳平に対し「早くやらんかと促した」とか、庄太郎の渡した褌の端を被告人が「車輓の咽喉の辺に当てた」とか、車輓の「頸に巻きつけた褌をギユツと締めた」とかいう事実はことごとく出鱈目の供述だつたことになる。

そこで予審判事から、しからばその夜のことを始めからもう一度くわしく申しのべよといわれ、庄太郎は当夜の被告人の行動について、新規まき直しの供述をしているが、ここでまた多くの注目すべき供述をするにいたつている。「仲蔵方で夕食をした後表へ出て夕涼をしていると、石松が来て、今晩はと挨拶し『今夜泊めてくれ』といつたので承知すると、石松は立去り、それから四十分も過ぎたとおもう頃小屋へ皈る途中、穀屋の東で荷車輓に道を質ねられ教えていると、石松がジリジリ寄つてきたから『お前まだこんなところにいるか』と言つた。すると石松が車輓に『俺が、案内してやる』と言うので、三人連れだつていくと石松は水を飲んでくるといつて先きへ行き、自分と車輓が電車道へ出たところ、石松が待つており、車輓と二人で電車道を北へ行き、自分は小屋へ皈つたが、芳平は小屋に居なかつた」とのべている。

これによると、石松が当夜仲蔵方前で庄太郎に会い、その後四十分位たつて庄太郎が番小屋へ皈る途中荷車輓に道を教えているときにまた会つたというのであるが、庄太郎が車輓に道を教えた時より四十分位も前に仲蔵方前で被告人に会い、言葉を交わしたということは、被告人のアリバイの主張との関連において看過しがたいものがある。

庄太郎は、荷車輓に道を教えていたとき、被告人がジリジリ寄つてきたから「お前まだこんなところにいるか」と言つたというのであるが、これも庄太郎が、一度もこれまで口にしたことのない事実であつて、しかも同人は検事の取調では、さきに触れたように、石ヤンらしい人が傍らに居たとか、石ヤンが居たが声はかけなかつたとのべており、とくに検事から、石ヤンと懇意な間柄であるのに何故話さなかつたかと訊ねられても、庄太郎は「別に用がなかつたから話さなかつた」と突つぱねていたのである。庄太郎がここでいうように、被告人がジリジリ傍らへ寄つてきて、庄太郎の方から「お前まだこんなところにいるか」と言つた事実があるならば、どうしてこれまでの取調において「石ヤンらしい人」が傍らにいたとか、石ヤンが居たが「声を掛けなかつた」というようないい加減な供述をしたのであろうか。さらに注目すべきことは、三人連れだつていく途中、被告人が水を飲んでくるといつて先きへ行つたという点であつて、これまた庄太郎が、ここで始めて言いだした事実である。庄太郎はこれによつて、被告人が番小屋へ行き芳平と謀議を遂げたことを暗に匂わせているものとおもわれる。

また庄太郎が小屋へ皈ると、芳平は居なかつたというのであるが、このような供述をするにいたつてはまつたく唖然として言うべき言葉を知らない。庄太郎はすでにみたように、これまでの取調では、小屋へ戻つてから芳平に「石ヤンらしい人が車輓についていた」とか、「今石松がその車輓を尾けていつておる」とか話し、それを聞いて芳平も玄能を取り出し、とびだして行つたと再三供述しておきながら、何という驚くべき供述の変転ぶりであろうか。庄太郎のいいたいところは察するに、被告人が水を飲みに行くと称して番小屋へ行き、芳平と車輓を襲う謀議を遂げ、芳平も被告人につづいて兇行現場へ向い、庄太郎が小屋へ戻つたときはもう居なかつたのであるから、庄太郎は共同謀議に関係がないし、また庄太郎が関係しなくても被告人と芳平との間に共同謀議の成立が可能であつたというのであろう。

庄太郎は語をついで、さらに驚くべき供述をしている。

「芳平は………大便へいきおるものと思い待つていると電車が二度ぐらい通つたとおもつたが、そのうちに石松が来て、自分を呼び起したから何かと聞くと、『今俺はこの先きで人を殺してきた』と言い、自分はフンーと申し云々」とのべている。

庄太郎は小屋へ戻つてからは、外へ一歩も出ないで寝ていたら被告人に起こされ、兇行の話を聞いたというのであるが、これまた庄太郎がこれまで一度も口にしたことのない事実である。しかしながらそうなつてくると、現場の一丁位手前のところに控えていたという同人の供述とも相容れないのみならず、まして庄太郎が兇行現場における被告人の行動について詳細に語つたこととは全面的に矛盾してくる。

庄太郎のこのような、その供述のいかなる矛盾撞着も意に介しない厚顔無恥こそは、まさに瞠目に値するものがある。

(一〇)  芳平の第三回予審調書(大正三年二月二日付)

芳平については、大正三年二月二日予審における第三回目の取調が行われているが、ここで同人がのべていることは、前回の予審の取調における供述の単なる繰り返しであつて、前回の供述についてさきにのべた疑問は、ここでも依然として解消されていない。そして最後に庄太郎と対質せしめられているが、その対質訊問も、主として庄太郎の当夜の行動に重点がおかれていて、被告人の行動に焦点をあわせた対質訊問は行われていない。

(一一)  庄太郎の第三回予審調書(大正三年二月二日付)

庄太郎については、大正三年二月二日予審における第三回目の取調が行われ、芳平、被告人の両名と対質せしめられている。

まず車輓の傍に被告人を見かけたというのは見そこないではないかと問われたのに対し、庄太郎は「石松は番小屋で四晩も泊つたことがありますから、見違えるようなことはありません」と答えている。しかし庄太郎と被告人は加藤半十郎硝子工場で一緒に働いていたこともある仲であるのに、石松が「番小屋へ泊つたことがあるから」見違えるようなことはないというのも、おかしな話ではあるが、対質のため入廷せしめられた芳平に対しても、石松は八月十三日以前に泊つたことがあるかという問が発せられ、芳平は「四夜さ程泊つたことがあります」とおうむ返しに答えている。しかし芳平はさきにのべたように、検事の第二回目の取調で「石ヤンは五、六日前に番小屋へ庄太郎を訪ねて来て、親方に使つてくれるよう頼んでくれと云つた。………その際庄太郎のいうには、石ヤンは貴様を顔見れば知つておるといつていたが、自分は何時、何処で会つた人か覚がない」と供述しているし、また同人は予審の第二回の取調でも前に触れたように、これと同趣旨の供述(予審判事から本当に石松を知つているのかと問われてなした供述)をくり返していることからみると、果して芳平の口から「四夜さ」という言葉がでたかどうかにも疑をもたざるを得ない。もしこの点をそれほど重視するのであるならば、四夜さの内訳について庄太郎、芳平両名の供述が符合するか否かを確めるべきであつたといわねばならない。そしてこの対質訊問はおうむね、庄太郎と被告人、芳平と被告人というかたちで行われたため、庄太郎と芳平は大体前回の予審の取調における供述をくり返えし、被告人はこれをあくまで否認するだけに了つており、庄太郎と芳平両名の供述の間に存する矛盾撞着を衝き、これを究明する対質訊問がついに行われなかつたのはまことに遺憾の極である。

(一二)  芳平の第二審公判(名古屋控訴院の)における証言

芳平が第二審たる名古屋控訴院の公判において、大正三年七月三日と同月十日の二回にわたつて、証人として取調をうけていることは明らかであるが、その証言の内容については、公判関係記録の滅失した今日、もはやその詳細を知る術もないけれども、第二審判決の引用するところのものはつぎのとおりである。

「自分は硝子職工で、大正二年七月頃より大西仲蔵方に雇われ、海田庄太郎も同人方に雇われていた。大西方は当時硝子工場が新築中であつたから、自分及び庄太郎はその傍の番小屋に寝泊りをなし、食事は同所より五、六町程距つておる大西方に至つてする例になつていた。大正二年八月十三日夜千種町字野輪地内電車軌道に沿つた道路で戸田亀太郎を殺害し、金を取つたに相違なく、被害者は財布の紐を帯に巻きつけていたから、庄太郎がその財布を取り、かつ、被害者の褌を外ずしやすくするため、庄太郎が鑿をもつて帯を切断した旨(以上大正三年七月三日の公判において)」並びに「荷車輓を殺害したのは自分と庄太郎と石松の三人の所為に相違なき旨(以上大正三年七月十日の公判において)の供述」

しかしながら芳平の大正三年七月三日の右証言は、結局芳平が「戸田亀太郎を殺害し金を取つたに相違なく」、庄太郎も「財布を取り」「鑿で帯を切断した」というだけのもので、被告人が本件犯行に加担したことを裏付ける事実には触れていない。また芳平の同月十日の右証言も荷車輓を殺害したのは芳平、庄太郎、被告人の三名の所為だというけれども、このような抽象的表現では芳平が果してどのような内容の証言をしていたかわからない。本件は、のちにのべるように、被告人が終始、徹底的にその犯行を否認した微妙な案件であつて、それなればこそ、名古屋控訴院も当時二度までも芳平を証人として訊問したものとおもわれるから、芳平に対しては共同謀議や実行行為の分担について、周到な取調が行われたはずであるのに、芳平の証言が、かくも抽象的に挙示されているのは、いかなる理由によるものであろうか。芳平のこれまでの供述が先きにのべたように変転つねなきものであつて、しかも庄太郎の供述とも矛盾をきわめていることを合せ考えてみると、芳平が被告人の当夜の行動について語つたところのものが、庄太郎の第二審公判における証言と具体的にはほとんど符合せず、ためにかような具体性のまつたくない、抽象的記載にとどめるほかなかつたのではないかともおもわれる。

(一三)  海田庄太郎も第二審たる名古屋控訴院の公判において証人として訊問をうけているが、その証言中第二審判決引用の部分はつぎのとおりである。

「自分は吃るため吃庄の綽名があり、大正二年八月十三日大西仲蔵方でタ食をなし、表に出ていると、石松が来て「今晩は」と挨拶をなし、そこへ繭籠を載せた荷車輓が西の方から来て古井坂を上つていくから、自分等もその後を尾いて電車道まで行つた。するとその車輓が萱場へ行く道を聞いたので、自分がその道を教え、自分等も教えた道を行くと、大島湯に達する手前で、石松は自分に対し右車輓より金を奪取しようと告げた。車輓は大島湯の手前で左に曲ろうとしたが、石松は足早にその車輓のところにいき、俺が道を教えてやるからこちらに来いと言つて、その湯屋の前の方へ連れていき、自分もその後から行つた。湯屋の前を通過し少し行くと、石松は一寸番小屋へいき水を飲んでくるといつて立ち去つた。自分と車輓とが電車道まで行つた際、すでに石松はそこに来て待つていた。自分はそこから別れ番小屋に帰ると、芳平は『石松が今夜金円を奪おうと言つていた』といい、玄能を持ち近道より出ていき、自分も鑿を持ち、その後より電車道に南の方から来たが、その時芳平が石松と何か私語し、芳平は玄能で車輓の頭部を殴打し車輓は倒れたが、石松はさらに尺八で車輓の頭部を殴つた。そのうちに電車がきたから、芳平と石松は黍畑に隠れ、自分も車の蔭に隠れ、電車の通過した後、自分が鑿で車輓の帯を切り、石松がその者の褌を外ずし首に巻き声を出さぬようになし、それから自分が財布を取つたら、石松が『その財布は俺に渡せ』といつたから石松に渡し、石松はその場から何れへか立ち去り、自分は玄能と鑿を持ち番小屋に皈り、芳平は夕食のため主人方へ行つた旨の供述」

これによると、まず庄太郎は当夜大西仲蔵方の表で被告人に会い、挨拶しているところへ荷車輓が来あわしたというのであるが、庄太郎はすでにのべたように予審の取調では、被告人と大西方前で会つた際、今晩泊めてくれと被告人が頼んだということを執拗なまでに言い張り、その泊るはずの被告人が荷車輓を萱場の方へ自ら案内するというから、被告人が何かする考だろうと思つて車輓を寂しい道に誘つたように供述しておきながら、ここではその点に一言も触れないかわりに、今度は「大島湯に達する手前で被告人が自分に対し車輓から金を奪取しようと告げた」というのである。いまさらながらその供述の変転ぶりには唖然たらざるを得ない。

さらに注目すべき供述としては、庄太郎が車輓や被告人と別れて番小屋に帰ると、芳平から「石松が今夜金を奪おうと言つていた」ということを聞いたという点であるが、庄太郎はこれまでの取調では、番小屋へ戻つたとき、芳平は居あわしたと言つたり、居なかつたと言つてみたりしていることは先きにのべたとおりであるが、芳平が番小屋に居あわしたと供述した際も、芳平の口から被告人が金員を奪取する決意を有していることを聞いたというようなことは一度ものべていない。そこでは庄太郎の方から、先きにのべたように被告人(または石ヤンらしい人)が車輓を尾けていることを話すと、芳平はそれを聞いて玄能を持つてとび出していつたようにのべていたのである。この供述の変転ぶりはまことに瞠目に値するものがあるといわねばならぬ。

庄太郎はさらに「芳平と石松が何か私語し」芳平が玄能で車輓を殴打し、倒れたところを被告人がさらに「尺八で車輓の頭部を殴つた」と、これまた驚くべき供述をしている。

庄太郎はこれまでの取調ではさきにのべたように、本件の兇行現場へ行かず番小屋に居たといつたり、現場の手前一丁位のところに控えていたといつてみたり、現場へ行つたことを認めてみたりして、その供述は区々に岐れ、矛盾撞着をきわめているのであるが、現場へ行つたことを認めた際も、庄太郎が現場へついた時には車輓はすでに倒れていたと供述し、芳平や被告人の殴撃については一言も触れていなかつたのに、ここではそれを目撃したようにのべている。庄太郎の供述の変転ぶりは、まつたくとどまるところを知らない。ただ、ここで庄太郎の語る尺八による殴撃の事実が、芳平のこれまでの供述と符合するようであるけれども、庄太郎は芳平との予審の対質訊問において、芳平が「石ヤンが車輓の後におり、『早くやッつけよ』と申し、自分は荷車輓の頭を玄能で殴り、車輓が倒れた後石ヤンが尺八にて車輓の脳天を三つ程殴つた」とのべたのを聞いているから、(庄太郎はその対質訊問ではこの事実を知らないとのべている)芳平の右供述に口を合せた証言をした疑が多分にある。ことに庄太郎は先きにふれたように、被告人の当夜の服装については、着衣の上着だけではなく、シヤツを着ていたことや、帯、帽子、履物にいたるまで詳細に再三語つているのに、もつとも目につき易いはずの尺八については、一言も触れていないからである。しかも被告人が、すでに芳平のため玄能で頭部を殴撃され、血に染つている亀太郎の、その頭部を尺八で乱打したとするならば、尺八に血痕の附着しないはずがないが、被告人の尺八(証第十四号)には鑑定人小野瓢郎の鑑定の結果によると、血痕の附着した形跡が認められない。(汚点は血液に因るものでない)

庄太郎はさらに、そのうちに電車がきたので、被告人と芳平は黍畑に隠れたとか、被告人が亀太郎の褌を外ずして首に巻いたとか、庄太郎の取つた財布を被告人が巻きあげたとかいうのであるが、いずれも庄太郎がこれまでの取調において一度も口にしたことのない事実ばかりである。電車がきたので被告人と芳平が黍畑に隠れたというのは、芳平の検事に対する第一回訊問調書における供述と合せ考えてみると、芳平と共に畑に隠れた庄太郎が、その時の自己の経験を被告人にかぶせて語つている疑が多分に存する。また亀太郎の首に巻いた褌については、庄太郎はこれまでの取調ではすでにみたように、兇行現場へ行つていないから知らないといつてみたり、石ヤンが巻きつけよと言つたから自分が巻いたなどと弁解しておきながら、これを被告人自身が巻いたと、ここでもその供述の変転ぶりを遺憾なく発揮している。

さらに注目すべきは、被告人が、亀太郎の財布を犯行現場で庄太郎の手から巻きあげて立ち去つたという点であるが、それが真赤な偏りであることだけは毫末の疑もない。芳平は検事に対する第一回訊問調書において、さきにふれたように、芳平が亀太郎の財布を取つて番小屋に持ち皈えつたことを自供し、その財布の特長からその中味まで詳細にのべており、その供述は亀太郎の妻戸田かまのの供述(同人に対する巡査部長の聴取書参照)と符合しているところからみて、芳平の右自供こそ真実を語つていることが明らかだからである。

しからば庄太郎はいかなる意図の下にかような偽証を敢てしたのであろうか。すでに第一審判決に服罪した庄太郎が、偽証を敢てしてまで被告人に不利な証言をなす真の意図は奈辺にあつたのであろうか。

第四、被告人の供述について

森輝雄ほか三名作成名義の搜査報告書(大正二年八月十五日付)によると、被告人は芳平、庄太郎両名の自供から共犯者として、大正二年八月十五日愛知県西春日井郡衫村字杉硝子製造業渡辺兼吉方で逮捕されたのであつて、即日検事の取調をうけている。

被告人は検事に対する被告人訊問調書(大正二年八月十五日付)において、検事から一昨夜(大正二年八月十三日)千種町の方へ行つたことはないかと問われ、これに対し「その日は午後八時頃仕事を了り、五、六丁隔つている花村しづゑ方の門前まで行き、人がいたので十時頃一旦工場へ帰り、直きにまた花村方の近所まで行きその辺をさまよい、十二時頃帰つたようなわけで千種町方面へはいきませんでした」とのべ、本件の取調の当初から、五十年後のいま当公廷においてのべるとまつたく同趣旨の弁明をしていたことがわかる。その時尺八を持つて行つたかという検事の問に対しても、少しも隠そうとはせず、「持つていきました」と肯定し、その尺八が示された証第十四号であることも素直に認めている。検事がその尺八に血液に似た汚点のあることを示し、これはどうして附着したかと訊ねても、「尺八は借りたものだが、借りうけるときには、そのような汚点はなかつたように思います」と少しも包み隠すところなくのべ、「しかしどうして附着したものかは存じませぬ」と平然と答えながら、しかも「私は血液ではないと思います」と断然たる自信を示した供述をしている。しかしてこの証第十四号の尺八の汚点が、被告人のいうように、なんら血液に起因するものでなかつたことは前にもふれたごとく、のちに鑑定人小野瓢郎の鑑定によつて明らかにされたとおりである。

被告人はその後、予審判事の前後四回(芳平、庄太郎との対質訊問をいれると五回)にわたる取調をうけているが、これらの取調を通じて被告人の語るところは、これまた当公廷におけると同様、大約つぎのごときものである。

「自分は当夜パナマ帽をかむり、尺八をもつて午後八時頃工場を出て、練兵場の北東にある花村という家の附近へ行きました。花村という家には、しづゑという娘があつて、以前にものを言つたこともあるし、また自分の別れた妻と似ていたので興味をもち遊びにいつたのであります。ところが若い男が三人同家にいて、芝居を見にいく話をしており、そのため同家に入るのを躊躇し男の帰るのを待つため、同家の様子を窺いつつ、気ながに附近をうろついていたが、その男たちがいつまで待つても帰らないので一旦工場へ帰つたがその時は午後十時頃でありました」と。

被告人の右のような弁明に対しては、予審判事から鋭い追及がなされていることはもちろんであるが、被告人の供述にはいささかも動揺の跡が認められない。証第十六号の単衣を示されても「それは私がその夜着ていた着物であります」と臆するところなくのべ、汚点があるが、何がついたかと問われても「汚れはありますが、血ではありません」と答え、予審判事から、鑑定の結果によると、たしかに血液だということだがどうかと訊ねられても、なお「それは鑑定が違つております」と平然と言いきつているところなど、自信に満ち溢れた供述といわねばならない。芳平が巡査から、畦畔にのこつた足型とお前のと合うといわれ顔面蒼白となり身震いし、ほとんど失神せんばかりになつたのとまことに好対照をなすものといわねばならない。また芳平や庄太郎の供述を聞かされ、同人等に恨まれているようなことはないかと問われても「かれらに恨をうけるようなことをしたことはありません」と素直に答え、「しかし私の名を指してそのように申し立てるのはどういう訳かわかりません、貴官は判事のことでありますからよく判断して下さいませ」と、その明鑑に訴えるべく哀訴している。それにも拘らず予審判事から、車輓を殺した後芳平等に対し口どめし、もし喋れば殺すと脅したことはないかと訊ねられると「そんなはずはありません、誰がそんなことを申しますか、ここに入れて下さい、どいつもこいつも承知ができません、人を殺しもせんものを殺したといつて七ケ月間も勾留したのだから、それらの者をここへ入れて今日中に片づけて貰いたいのであります」と憤然色をなし、悲涙にむせんでいる有様が目に見えるようである。

また被告人は、芳平、庄太郎の両名と対質せしめられて訊問をうけているが、被告人の供述がこれによつて微動だもしていないことは、庄太郎が芳平との対質において忽ち馬脚を現わし、自ら嘘をいつたことを認めてしまつているのとはまつたくその趣を異にしている。

つぎに被告人が第一審及び第二審(再審前)公判において、どのような供述をしたかは公判関係記録の滅失してしまつた現在これを明にする術もなく、わずかに残つた第一、二審判決書によつてその供述の一部を知りうるにすぎない。第二審判決の引用のものはつぎのとおりである。

「自分は大正二年八月十一日から杉村の渡辺兼吉方に硝子工として雇われ、同月十三日午後七時過ぎまで働き、風呂にはいり食事をなし、同家を出て十一時まじかいころ帰宅した。その夜はパナマ帽を冠り他より借りた尺八を携え、紺絣の単衣を着ていました」と。

しかし第二審判決が、被告人の断罪の資料としたこの供述部分ですら、ほとんど、被告人の検事や予審の取調における供述と異ならないのであるから、被告人が第一、二審公判においてもそれまでの供述を終始維持し続けていたことが窺われる。

さらに再審公判における被告人の供述の内容は、先きにのべたごとく、被告人の予審における供述とほとんど同趣旨であるから、ここではくり返さないこととするが、ともかく、被告人が当夜の行動について語るところは、実に半世紀の永きにわたり、まことによく終始一貫しており、驚嘆に値するものがある。しかも、被告人の事件にのぞむ態度は、つねに積極的協力的であつて、事件の核心たる被告人の当夜の行動に触れると、いまでも相貌にわかに活気を帯び、当時を回想しつつ、身ぶり手まねを交え、できるだけ多くを語ろうとして、時には裁判長の制止すら耳にはいらないこともあつたほどで、その自信に満ち溢れた供述には、聞く者の心を捉えずにはおかない迫力がある。それは、庄太郎がすでにみたごとく、事件の核心に触れることを極度に恐れて、つねに逃避的非協力的態度のもとに、曖昧模糊たる何とも捉えようのない供述をこととし、甚だしきはのちにのべるように、「ウアー」「ウアー」と異様な唸り声を発して発声不能を装うことすらあつたのとは、正によい対照をなすものといえる。

第五、芳平の覚書と庄太郎の詑状その他

芳平、庄太郎の両名はいずれもその刑を了えて出所後、同じく刑を了えておくれて出所した被告人とめぐり会い、両名とも夫々第三者立会のもとに、被告人に対し無実の罪にひきいれたことを謝罪したほか、庄太郎のごときは(芳平はその後間もなく死亡)第三者に対しても再三、再四同様の供述をしているのであつて、その詳細はつぎのとおりである。

(一)  芳平の覚書

被告人は出所以来、血まなこになつて探しもとめていた芳平が、神戸市立救護院灘分院に収容されていることをつきとめ、昭和十年四月二十四日、当時の名古屋新聞記者池田辰二に伴われ、同救護院を訪ねて芳平に会つているが、その時の模様について右池田辰二(名古屋高等商業学校卒業後名古屋新聞社に記者として入社、現在は財界名古屋社の経営者)は証人として当公廷においてつぎのようにのべている。

「北河芳平を救護院へ訪ねていき、石松に会わせたところ、石松が『俺は無罪だ』とか『俺を犯人にした』とかいつて芳平に立ち向つていこうとしたので、自分は驚いて石松をとめ宥めたが、同人が興奮しているため、間違でもあつてはならんと思い、救護院の院長を呼んできて、石松と芳平をテーブルを隔てて座らせ、四人で話しあえるようにした。すると石松が先ず、俺は無罪だというようなことを言つたので、院長が芳平にどんなことかと質ねた。そこで自分が事件のあらましを話すと、芳平は何のいいわけもしないで『吉田すまん』と頭を下げて謝つた。石松は、頭を下げて謝るだけではいかん、証拠がほしいというようなことを言い、芳平もその時石松は事件に関係がなく、芳平、庄太郎の二人でやつたことを認めていたので、院長の発案でそういう趣旨の謝り証文のようなものを部屋の片隅のテーブルの上で芳平に書かせた覚である。その会見の時の言葉のやりとりまでは、いまでは記憶していないが、当時の名古屋新聞に写真入りで詳細にその記事を載せたはずである。この記事の内容については、当時の名古屋新聞社の与良社長が記事の正確をモツトーとしていることで知られた人で、この点だけは部下に対し、ずい分やかましい人であつたから、自分も会見記の内容については絶対に自信をもつており、断じて興味本位に誇張したり、事実を曲げたようなことはなく、ありのまま書いたものである」旨当時を回顧しつつ、芳平がいかに被告人の前にただ平身低頭し一言もなかつたかを物語つている。

そして昭和十年四月二十五日の名古屋新聞(写真)によると、その対談の模様は

「石松――お前はなぜ自首して出ないのだ。

芳平――無言。

石松――俺はお前の居所を血眼になつてさがしていたのだ。

芳平――申しわけない。

芳平も石松もともに涙をながしている。

石松――俺は二十三年間無罪を泣きつづけてきたのだ。俺の無罪を知つているのはお前と庄太の二人きりだ。なぜ俺を罪にまきこんだのだ。

芳平――申しわけない。お前に罪はなかつたのだ。

石松――無言。

芳平――あの時、事件は俺も事実知らなんだのだ。庄太にあとできかされた上に脅迫されたんだ。許してくれ。

石松――俺とお前は一面識もなかつたはずだ。

芳平――全くその通りだ。取調の際に係官に石松も一緒だつたろうと云われ、俺はその時ハハンこれは庄太の狂言だと察して自分の罪を少しでも軽くするために、つい心にもなくお前を首謀者にしてしまつたわけだ。

石松――は調書を今でも暗記している。庄太のでたらめにひつかかつたのだな。おい芳平、俺の寃罪を認めてくれるんか。

芳平――すまん、すまん。

石松――じやあ、あすにでも自首してでよ。そして事件の真相を明らかにしてくれ。俺は死んでも死にきれないのだ。

芳平――自首でもなんでもする。俺はここで立派にお前の無罪を証明するために筆で書く。どうか許してくれ。」

とあつて、芳平が、池田証人と救護院の院長の面前で、被告人を無実の罪にひきいれたことを平謝りに謝つて一言もなかつた当時の会談の模様が彷彿としている。そして池田証人の言う謝り証文というのは、前記昭和十年四月二十五日の名古屋新聞紙上に写真が掲載されている覚書のことであるが、これによると「大正二年八月十三日夜名古屋市千種町の強盗殺人事件に関しては、海田が私を脅迫し吉田を主犯とするようたくらみ、さらに公判に際してはデタラメの申し立をなし、罪を貴殿と私に転嫁いたしましたゆえ、成行上私の罪を軽くするため、貴殿を主犯と申したのであります。右相違ありません。なお貴殿はこの事件に関係ありません」とあつて、芳平の認印がその名下に押されているのである。

(二)  庄太郎の詑状

被告人は出所以来、必死の努力と司法関係の新聞記者青山与平等の協力によつて、ようやく庄太郎が埼玉県北葛飾郡彦成村に居住していることをつきとめ、昭和十一年十二月十四日都新聞の記者藤田幸男とともに、右居住地に赴き庄太郎に会つているが、その時の状況について右藤田記者(早稲田大学法科卒業後都新聞社に記者として入社、元財団法人東京新聞論説委員)は、証人として当公廷においてつぎのように証言している。「石松と自分は、菊地写真部員と一緒に自動車で埼玉県北葛飾郡彦成村の庄太郎の住居を訪ねると、ひどいあばら家で折悪しく不在だつた。近所にいた子供に行先を質ねると、庄太郎は雑貨の行商をしているとかで、さつき向うへ行つたというので附近で待つていた。間もなく庄太郎らしい男が来たので隠れていると、やはり庄太郎で、車を輓いて近づいてきた。石松がしきりに飛び出していこうとするのを押え、自分がでていき「海田さんですか、お会いしたい人があつて連れてきました」と言つて名のつていると、石松がおどりでてきてしまつた。すると庄太郎は石松を見るや否や、車を放おりだして一目散に逃げだした。そこで自分が庄太郎の跡を追い、四、五十米先でやつと追いつき『決して乱暴するわけではないから、話だけ聞いてやつて下さい』といつているところへ、石松がとんできて、『やいこの庄太、俺のことを知つているか』といつた。庄太郎がその時なんと言つたかよく憶えていないが、とにかく、なんで忘れることができるか、毎日あんたのことばかり考えていた、あやまりに行きたかつたが、行けばあんたに怒られてそれこそ殴り殺されるかもしれんと思いこわくて行けなかつた。すまなかつた。事件に巻きこんで本当にすまなかつた。勘弁してくれと大体こんなことを言い、道ばたにへなへなと崩れるように四つんばいになつて頭をさげた。自分としても、まさかこんな場面にぶつかるとは思いもよらなかつたが直ぐ、菊地写真部員がこれを写真におさめた。石松はそれから庄太郎のいうことを自分がメモしていた時、同人をたたいたような気もする。しかし自分も石松に庄太郎と会う前、絶対暴力にでないよう注意しておいたが、石松も押えに押えていた気持が爆発したという感じがした。庄太郎はとにかく石松に長い間あんたを巻きこんで迷惑をかけてすまなかつたと謝つたので、そこから大分離れた農家の近くまで一緒に行つて、自分が庄太郎にほんとうに申しわけがないというなら、後日の証拠のために詑証文を書いたらどうかというと、庄太郎はその農家で硯と筆を借り、紙ももらつて詑証文を書いた。文面はその時庄太郎がお前を引きいれて済まなかつたというようなことでよいかと聞き、石松がそれでいいと答えたと思う、文字は庄太郎が書いたものに間違なく、たしか詫という字を聞かれて自分が教えた憶がある。」と供述しており、藤田証人の言う右詫証文というのは、昭和十一年十二月十五日の都新聞掲載の写真によると、「お前を引入れて悪かつた、堪忍してくれい。罪が軽くなろうと思つて、うそを言うた」という文面の庄太郎名儀のものである。

この詑状については、被告人がその際庄太郎を殴つた事実があるため、庄太郎は被告人に脅されて書いたもののようにいつているが、もし被告人が庄太郎等に無実の罪をきせられていたとするならば、獄窓生活二十余年の間、夢寝にも忘れなかつたこの仇敵にいまやめぐりあつたのであるから、被告人が痛憤激昂するのもむしろ当然のことであつて、押えても押えきれない気持から思わず知らず庄太郎を手拳で殴つたからといつて、負傷した事実もないのにこの程度のわずかの制裁の一場面のみを捉えて、右詑状を暴行脅迫によつて書かせたもので、真意にいでたものでないと断じ、その記載内容までも否定し去ることの許されないことは多言を要しない。

しかも庄太郎のこれと同趣旨の謝罪は右の詑状に尽きるものではなかつた。

(三)  庄太郎に対する藤原法務事務官の調査書(昭和二十八年四月十日付)

これによると、庄太郎は兇行現場へ行つていないから知らないと言いながら、「自分は何故公判廷で事実に反したことを供述したかといいますと、警察で取調べられたとき蹴つたり、殴つたりひどい拷問をうけたので夢中で喋つてしまつたのですが、検事さんの前でも予審判事の前でも、一度警察で喋つてしまつたので、その通り供述したのです。そして公判廷でもその通り述べたのであります」と公判廷で虚偽の供述をしたことだけは認めている。しかしながら庄太郎が検事や予審判事の取調を通じ変転つねなき供述に終始し、第二審公判においてなした証言も、それまでの同人の供述とまつたく趣を異にしていることはすでにみたとおりである。したがつて庄太郎がここで陳弁これつとめるように、警察で苛酷な取調をうけ「夢中で喋つてしまつた」から、その後の取調でも、そのとおりのべたということが真実でないことは、きわめて明白であるといわねばならない。庄太郎はここでも嘘のうわ塗りをしたに過ぎないことになる。

(四)  庄太郎に対する大森、藤原両法務事務官の調査書(昭和三十年六月二十二日付)

ここでも庄太郎は兇行現場に行つていないと言い張つているが、それにも拘らず「只今判決原本(名古屋控訴院判決の庄太郎の供述部分)を読んでもらいましたが、それと同じようなことを以前予審判事に読んでもらいました。その時は頭がカツカツして何もわからないで、自分は「ヘイ」と答えて認めてしまつたのであります。嘘を言うつもりでしやべつたのではないのですが、あのときは何のはずみか、どうしてあんなことを云つたのか判らないのですが、吉田に悪いことをしたと思います。自分も吉田の立場になれば、吉田の気持は判ると思います」とのべ、不得要領の供述のうちにも、結局は被告人を無実の罪にひきいれたことを認める趣旨とおもわれる供述をしている。

(五)  ラジオ東京企画による被告人と庄太郎の対質訊問録音の速記録(昭和三十一年七月六日収録)

ラジオ東京が収録した海田庄太郎、吉田石松対質録音記録によると、記者の問に対する庄太郎の供述は全体としてはまつたくのらりくらりとした何とも捉えようのないもので、これが真実を語る者の態度かと疑わしめるものがあるが、しかしそれにもかかわらず「石松が被害者に手を下したことは事実か」という問に対しては「いいや、そんなことは知らない」と答え、記者に「あんたこの裁判書に書いてあるようなことでね、吉田や北川と一緒にやつたんだというようなことを言つているようになつているがね、そういうことをもし言うているとすれば、まことに申訳ないという気持だね」と追及されると、庄太郎もついに「ええ、そうです」と頭を下げ、さらに「その時はズート書いて向うが読みあげたから、自分ではどうなつても構わない。そこで間違いないねて………はい、判こというから判こを押してきた」と弁解し、記者の「あんたがそんなあやふやなことをするから、ああいうように迷惑する人もできる。そういうこと、あんたこれから先きが短いといつたつて生きられる人だから気をつけなけりやね」とだめを押されると、庄太郎も「わしがそこでヘエヘエそうだといつたのはわしが悪かつた」とついにかぶとを脱いでしまつている。

第六、芳平、庄太郎の性行

芳平については、当時その原籍地を所轄した御油警察署長の素行調書(大正二年八月二十九日付)によると、芳平は「性愚鈍、善悪の判断力乏しく他人に扇動され易い性格の持主で、小学校を了え、十四、五才の頃豊橋市の石工職の許へ見習のため住込んだが、愚鈍で他の徒弟のように間に合わず、約二年間児守をさせられ、十七才の頃無断主家を家出し、三月位乞食同様諸所を徘徊したのち、岡崎の石工場に住込んだが永続きせず、その後瀬戸方面で土方となつたが、色情の味を覚え少しでも金に余裕があると、すぐ料亭で費消し蓄財心に乏しきもの」とあるし、また小菅刑務所長の回答書添付の芳平に対する身上調書写にも、その性質について「放縦(魯鈍)」とか、「本人は白痴なるにより云々」とか記されていることからみて、芳平が「アホ芳」の異名のごとく、通常人の精神状態を、著しく欠如した素行不良者であつたことが窺われる。

一方庄太郎については、新栄町警察署長作成にかかる素行調書によると、庄太郎は「性頑固にして兇悪かつ機敏、十二、三才の頃より掏摸の常習者近藤某方に寄食し、掏摸の見習をしていたが、当時からその技倆は親分を凌ぎ、大いに目をかけられていたが、三年間でそこを出てからは、土方になつたり琉璃工場の職工となつて諸所を転々とするにいたつた。つねに飲酒を好み、酒癖があり吃なるも弁舌巧にして喧嘩口論すること多くく、雇主ももてあますほどであつた」と記載されており、その性質につき、とくに「兇悪かつ機敏」のほかに「吃なるも弁舌巧」という一見奇妙な表現がなされている点が注目されるし、また小菅監獄の身上票照会に対する愛知県一宮警察署長の回答書(大正三年五月三日付)にも、庄太郎の性質について「無類の嘘つき」という最上級の言葉でその虚言癖が指摘されている。これによつて奸智に長け、口巧者で平気で嘘を言うその性格の一端がよく窺われる。

芳平、庄太郎の両名を当時雇つていたことのある加藤硝子工場の経営者加藤半十郎は、再審開始前の当裁判所の事実調において証人として、当時を回顧しながらこの両名の性格について、「芳平は頭が少し足りないので、アホ芳という綽名のある、役に立たない男であるが、一方庄太郎は頭は悪いことはなく、吃りで一見真面目そうに見えるが嘘が多く、その嘘がばれたりして都合の悪いときは、吃のせいか、わざとするのか、その点はよくわからないが、とにかく口を開けてウアー、ウアーと訳のわからぬことをいう癖があつた」と証言しておる。

また庄太郎は当裁判所の再審開始前の事実調において、証人として人定質問ののち、弁護人から「現在民生委員の世話になつているか」と問われ「民生委員から月千八百六十七円もらつている」と答えたあたりまではは、前年わずらつた脳溢血のためか、小声で聞きづらいところがあるとはいうものの、十分聞きとれる程度のものであつたのに、本件犯行の内容にはいろうとすると、忽ち顔を伏せて頷いたり首を横にふるだけで一語も発しない。そこで顔をあげて答えるよう注意すると、今度は口を大きく開けて、ただウアー、ウアーというだけで、皆目その供述の内容はわからない。(同証人の尋問の際採取した録音参照)当裁判所としては、庄太郎が嘘をいつてばれたりした場合にこの手をもちいる癖のあることは、その後前掲加藤証人を調べてはじめてこれを知り得たのであるが、この庄太郎の取調の当時は、そのような習癖のあることはわからなかつたので、急遽耳鼻咽喉科の専門医橋本好司の来診をもとめて鑑定せしめたが、庄太郎の声帯、鼓膜その他に何等病的異常のないことが明らかになつたのみならず、その診断中同医師が偶々庄太郎の咽喉を診るため、その舌の先端をガーゼで少しつまむと、舌が荒れていたせいか、同人はおもわず「痛い」とはつきり発声して忽ち馬脚を現わし、同医師を始め列席者一同を唖然たらしめたこともあつて、前掲警察の素行調書の記載や、前顕証人加藤半十郎の証言とおもいあわせて、庄太郎の若い頃からの虚言癖はなるほど「無類の」もので、病膏肓にはいつていることが看取される。

してみると、庄太郎が、すでにみたように被告人の当夜の行動について語つたことに関して、被告人その他から、しばしば前記のごとき鋭い追及をうけ、再三再四自己の非を認めておりながら、しかも実は自分も犯行には関係がないと言つたり、現場には行つていないと弁解してみたりするのも、同人のかような虚言癖からくる自己弁護(世間から少しでも悪く見られては損だという打算)のための便乗的供述と考えざるを得ない。

第七、被告人の経歴、性行

この微妙かつ重大な案件について、被告人の経歴や性質、素行に関する取調が捜査や予審の段階において、はなはだ不十分であつたことは否定できない。すなわち

被告人の経歴については、被告人の検事に対する訊問調書のうちに「自分は渡辺兼吉工場には八月十一日(大正二年)から雇われるようになつたばかりで、その前には加藤(半十郎)硝子工場に同年五月頃から雇われていた」という趣旨の供述がみられるだけで他に何等の取調が行われた形跡もないのであるが、被告人は再審開始後の当公廷においてその経歴をつぎのように語つている。

「自分は福井県の農家に生れ、十六才のころ大阪で米屋をしていた叔父に連れられて大阪へ出たが、二年位後に叔父が事業に失敗したので、大阪で硝子工場に勤めるようになり、北海新町の松田硝子工場などで働いているうちに田中タネと知り合い結婚するようになつた。それから東京へ出て、その頃小石川区西丸町にいた兄のところに一年位世話になつていた。ところがタネが一緒にいた自分の弟と喧嘩し自分が弟に肩をもつといつて怒つて、家出してしまつた。自分はタネの行方を探すため、大正二年五月頃名古屋へ来たが所在がわからず、遊んでいることもできないので、加藤半十郎硝子工場へ雇つてもらい、二、三月後渡辺兼吉硝子工場へ移つた」というのであつて、叔父の事業失敗後は硝子職工一途に生きてきたことが窺われる。

被告人の性質、素行については、名古屋市の新栄町署作成の素行調書が本件記録に編綴されていたことは、記録の目次によつて窺われるのであるが、その書類は記録から取り去られており(目次の備考欄に「執行の為名古屋監獄に送致す」とある)その内容を知る術もなく、他に被告人の性行を取調べた形跡は認められない。しかし被告人は名古屋市へ来てから日が浅かつたとはいうものの、加藤半十郎硝子工場に三月位雇われていたのであるから、雇主たる右加藤半十郎や、その工場の職工などから被告人の性行を聞くことができたはずである。現に右加藤半十郎は再審開始前の当裁判所の事実調において、証人として当時を回想しながら「石松は本件の起きるほんの少し前まで、自分方硝子工場で火夫として働いていた者であるが、硝子工場では火加減が非常にむつかしく大事な仕事であるが、火夫は職工のなかでは給料は比較的よかつた。石松は真面目で人柄もよく、仕事もよくやるので、本人を見込んで自分方の分工場のような関係にある渡辺兼吉工場へ差しむけたほどである。石松がその頃、とくに酒色に耽つていたというようなことはなく、自分がいまでもはつきり覚えているのは、自分の当時幼かつた孫娘をとても可愛がつて、遊んでやつてくれたことである」旨のべ被告人の人柄をむしろ大いに称揚している。もつとも秋田刑務所からの取寄記録中の素行調書には「性頑固にして猛悪なりり。飲酒を好み酒癖あり云々」というような記載があるが、右は被告人を検挙し本件の捜査に当つた新栄町警察署においてその検挙後の大正二年八月二十八日作成された文書(刑執行の為名古屋監獄に送致された前掲素行調書かと臆測される)であるから、被告人が本件犯行を敢行したものという予断のもとに作成された疑が多分に存するものといわねばならない。

なお被告人が当時前科を有する者でなかつたことは小菅刑務所長回答の身上調書写によつて明らかである。

第八、被告人の逮捕時の状況

芳平、庄太郎の両名が逮捕されたのは本件犯行の翌日たる大正二年八月十四日であつて、被告人の逮捕をみたのがそのまま翌日の八月十五日の正午ごろであることは先きに触れたとおりであるが、被告人の逮捕の時の模様について、当裁判所の再審開始前の事実取調において証人早川良一は「そのころ自分は石松と同じ渡辺硝子工場に勤めていたが、刑事が三、四人『石松おるか』といつて寝部屋へ入つてきた」と、当時を回想しながら「自分がいまでもまだはつきり覚えていることは、石松が検挙された時何のごたごたもなく、これが犯人かと思われるような態度で、ただ言われるまま默つてついていつた云々」と語つておるから、被告人は逮捕の際、逃げようともせず、狼狽してとり乱したようなところもなく、「これが犯人か」と疑われるような淡々とした態度であつたことが窺われるし、また当時同じ工場に勤めていた伊藤庄治郎も日本弁護士連合会人権擁護委員会に対する聴取書のうちで「石松逮捕の時の石松の態度については何も覚えていないが、同人の尺八と着物は刑事に頼まれて自分が渡してやつた。その尺八と着物は部屋の棚の上にただなんとなく置いてあつた」とのべている。

かように被告人は芳平、庄太郎の逮捕後も逃走しようともせず、また刑事に逮捕されても動ずるところがなく、また兇器といわれる尺八や犯行時に着ていたという単衣も、芳平や庄太郎のように、これを洗つたり隠したりすることなく、それらが「棚の上にただなんとなく」置かれていたということはまことに注目に値する事実といわなければならない。

第九、被告人の手記「此書は裁判調べ非理を書き」について

この「此書は裁判調べ非理を書き」と題する手記は被告人が在監中に認めたもので、まことに読みにくい稚拙な文字で綴られているが、被告人の逮捕時の模様、刑事室における取調状況、その拷問の有様、被告人と警部や予審判事との問答などが二十二頁にわたつてことこまかに語られており、言言句句、それこそ血を吐くような真に迫つた思がこめられている。その一節(文字の間違も原文のまま)に

「可様な事は歴史に見えません一人の弱い者を武道の心得ある者が六人で可様な事をするのは国家を頭に冠り居る者のなすわざで有りません是が文明国といえるか是で光明成る政治か見て下被候吉田石松の手を組合して雑巾二枚合して手に巻きよもぎ色の絹の繩でしめる。刑事が足を掛てしめるしめて絞りし間々小一時間置て後に繩をほどくと雑巾に手の肉や皮が就て手の骨が見へる位いで有りました可様な事が文明の今日にあろを事か考へ見て下被奚を石松が何云ふ心で或ただろうかと石松の思を顧み下被候此場の思は口で云ふ事も書翰文も絶たいに此上に並ふ物有ません」と泣訴している。漢字をほとんど知らなかつた被告人が獄中で文字を習い、この二十二頁にわたる長文の手記を、一言一句辞書をひきながら、いかに血涙をもつて綴つたかは、その文字が辞書の活字体を一点一劃そのままにひき写しにしている努力のうちにも看取されるであろう。

第十、被告人の不退転の行動

被告人は捜査から、予審、公判を通じ、終始一貫その犯行を否認し、無実を叫び続けていたものであることは、すでにみたとおりであるが、判決確定後もつねに寃罪を訴え、入監しては囚衣をまとい労務に服するを肯せず、ために不労囚の烙印のもとに北辺の網走刑務所に送られ、その間懲罪をうけること五十有三回に及んだが屈せず、再審の請求をなすこと数回、司法大臣に対し情願をなすことまた数回、いずれもその目的を達するには至らなかつたが、こうして弛まざる闘争嘆願に明け暮れているうちに二十有余年の歳月が流れ、昭和十年三月二十一日漸く仮釈放の恩典に浴し、秋田刑務所を出所するにいたつたものなることは、同刑務所からの取寄記録によつて明らかであるが、右記録のなかから被告人の獄中における行動の一端を窺つてみよう。

一、大正三年十一月十六日付看守長の作成ににかかる視察表に

被告人は「犯罪を否認し曩に当監へ押送入監したる二人の者に対決して再審の訴をしてくれ、名古屋監獄出発の際典獄殿が小菅へ二人を送てあるから小菅へ到着したら、典獄殿に願つて再審の訴をせば、出られると申されたから、それを楽みに来た、どうか一つ調べて下さい、そうして早く出して呉れと嘆くが如く語り、其の状恰も狂人の如く、如何に制するも合掌して果ては調所に坐せり云々」とある。

これによると、被告人は名古屋監獄でも、無実を訴え芳平、庄太郎の両名との対決をもとめてやまなかつたが、典獄から右両名は小菅にいるから、万事はそちらに移つてからにせよと諭されたので、対決を楽しみに小菅刑務所へ来たから、是が非でも対決させてくれと「嘆くが如く」語り、まるで「狂人の如く如何に制するも合掌して止まず果ては調所に坐」してしまつたというのである。この看守長の表現にいささかも誇張などのあろう道理がない。

二、同月二十一付看守長の作成にかかる視察表にも

「その方は知らぬ知らぬというが、何故裁判所が罪なき者を罰するか。控訴上告までなし、棄却となりたる者が如何して斯くの如く強情言うか。その方は、阿呆や吃音を相手にしてその者に罪を着せるという考は不都合ならずや、再審の訴は十分なる反証ありて、警察からかかる人間があるというときは再審の訴もできる。故に後日若し、して貰いたくば確定した刑は謹慎して服役せよ。

この間、受刑者は新入のときの如く、手を合せるなど同じ動作を敢てせり云々」とある。

これによつて、被告人が小菅刑務所に移されてからも、寃罪を叫び続けていたために、看守長から「阿呆」の芳平や「吃音」の庄太郎に罪を着せようとしているものとおもわれ、叱責されているが、被告人は「新入のときの如く手を合せ」て拝んでやまなかつたことがわかる。

三、大正三年十二月一日看守矢島仲次郎作成の視察表には

「右受刑者は入監以来犯罪を否認し、昨夕も例の如く両手を同せ、寃罪で赤き衣服を着用せしめられるるは情なし。何卒再審の手続をして下さいと、如何に制するも肯せず、果ては横臥して泣き伏すの情況にて、万一縊死の惧なきを保せず候に付、戒具使用相成度候此段及上申候也」とある。

これによると、被告人が犯罪を否認してやます、いかに制しても肯ぜず「果ては横臥して」泣訴するにいたつた情景が記されている。

しかもこの上申に対しては、典獄は戒具の使用を許し、翌年一月十一日にいたつてこれを解除しているので、被告人はその間実に四十日余の永い間縊死の虞ありとして戒具を使用されていたことが窺われる。

四、大正四年一月二十二日付のつぎの視察表は作成者は不明であるが

「右受刑者は性質陰険執拗にして未だ毫も改悛の色を認めず。犯罪の否認は依然異なるなし。但し精神状態は沈静、典獄の御訓諭に基き、時機の至るを待ち、飽くまでも謹慎すると言う。作業の余暇常に両手を合せ、神仏の加護を祈願せるものの如し、衛生に関する注意を欠き房内不潔を極む。作業は技能劣等にして科程を了せず、雑居出業せしむるは、善良なる他受刑者に悪感化を与うるの虞ありと認む。当分独居せしむべきものと思料す」とある。

これによると、被告人が依然として無実を叫ぶばかりで作業に精励せず、ついに独居拘禁されるにいたつたことが認められると同時に、被告人が「作業の余暇常に両手を合せ神仏の加護を祈願」していた姿が目に見えるようである。

五、大正五年一月二十日看守長作成の視察表に

「本受刑者は入監以来既に一年有三月を経過せり、然るに今尚犯罪を否認し、名吏の懇篤なる説諭を受くるも更に反省の念なく、機に触れ事に臨んで冤罪を泣訴して止まざる者に有之、若し工場出業せしめんか、益々種々の情願をなし、他受刑者の謹慎勉励を阻害するものと視察候条、尚引続き独居拘禁の紀律強要可然哉」とある。

これにより被告人が入監以来一年余経過したが依然として寃罪を泣訴してやまず、いかに説諭を加えても肯じないため、ひきつづき独居拘禁されるにいたつたことが窺われる。

この独居拘禁は同年三月十四日ようやく解かれたかと思うと同年四月十七日からまたも独居拘禁に付されている。

六、大正五年四月十三日の懲罰表によると、

「本受刑者は十三日出房の際共犯者海田庄太郎の通行に際し突然飛び出て、後頭部左側に喰い付き微傷を負わせ、左眼上部を爪にて引き掻きこれ又微傷を負わしめたり。………取調べたるに、かねて犯罪を否認し彼の為に受刑の身となる怨恨の情の終に発し、本日は被害者の命日なる為、右様の行為にいず云々」とあつて、被告人が入監中庄太郎に対し、被害者の命日を択んで右のような暴行にでたことが窺われる。

七、大正五年八月三日看守長作成の視察表に、

「本囚兄弟利吉及び三五郎の依頼により弁護士久須美幸松再審の訴に付き接見す、要旨左の如し。

本囚より犯罪当時の状況に付き種々陳述せしも、皆刑事訴訟法所定の再審の理由とならざる旨弁護士より申し聞かせ、再審の訴は断念し、謹慎服役する外道なしと述べしも、尚本囚は頑として応ぜず、飽く迄再審の訴につき兄弟に伝言を依頼す。

尚接見後非常に悲観せし故戒護看守に対し特別視察を命ず云々」とある。

被告人の獄中における行動の記録はとうていここに一々枚挙する遑はないが、それは不断に寃罪を叫びつづける血みどろの闘争であつた。ためにその記録のほとんどすべてが懲罰の連続であつたといえる。

しかしながら、被告人の獄中におけるこうした闘争の面は別として、その性格の一端がつぎの記録のなかに躍如としてあらわれている。

一、大正二年十二月二十五日監獄医小林嘉美作成の文書、これは被告人の未決拘禁中に作成されたものであるが、被告人はここでも小林医師に対して、庄太郎等に陥しいれられ、警察で拷問されたことを激しい言葉で訴えているのであるが、同医師は「論理の正確にして寸毫も誤りなきを以て見れば、錯覚妄想なく、追想記憶完全にして観念の聯合に異常なきを知るべし。…………談虐待(警察における取調の)に及べば激昂の色あるは、感動の自然興奮にして元より然るべし。………之れに因て之を観れば現今に於て精神に異状ありと思惟すべき点なし」とある。したがつて当時から被告人が正常な精神状態の持主であつて、偏執者その他の異常性格者でなかつたことがわかる。

二、大正四年九月十三日看守長作成の文書には、被告人の実母が訪ねて来て接見した後、同女はつぎのように語つた。

「本受刑者の外に男の兄弟三人あるも、誰も本人に及ばぬ親孝行なりしが、如何にして受刑の身となりしかと嘆息し、何かの因縁ならんと落涙す」とある。

この母親の言葉を裏づけるように、つぎのごとき母親宛送金願出に関する文書が多数残つている。

三、大正六年七月二十四日教誨師作成の文書に

「本受刑者は………一人の老母に対し至孝の念切実にして、特に扶助料として金弐円接見時下附方願出候云々」とあるし

また、大正七年五月十五日教誨師作成の文書にも

「金弐円也右は賞与金中老母宛送付方願出あり。調査を遂ぐるに、本人は言行共に常規を逸し頗る変質の者なれども、老母に対しては誠に孝養の思念厚く、居房訪問の都度、右の希望を懇請し居るもの云々」とある。大正七年十一月六日被告人の差しだした実母宛の金一円五十銭の送金願に対しても送金が許可されている。被告人の実母は大正十四年九月八日死亡しているようであるが、被告人の送金はそれまで続けられているのみか、その後も亡父母の命日に香花料がわずかな作業賞与金の中から送金されている。

こうしたところにも被告人の人間性が迸ばしりでているようにおもわれる。

とまれ、被告人は、かように兇悪囚として懲罰に次ぐ懲罰と、戒具をはめられて独居房に呻吟すること実に五十有三回にも及んだのであるが、その後秋田刑務所長の懇篤な説諭によつて飜然としてその態度を改め、それ以来「行状善良」となり、前記のごとく昭和十年三月二十一日ついに仮釈放の恩典に浴して出所したのであつた。しかしながらそのときすでに被告人の頭には白髪が交り齢六十にちかかつたのである。

かくて被告人は出所するや、その足で秋田警察署に赴き芳平、庄太郎両名の所在捜査を依頼し、爾来屑屋になつて諸所を彷徨し、右両名の所在を捜しもとめ、その寃罪を叫びつづけているうちに、青山与平等報道関係者の協力を得て両名の所在を探しあて、記者立会のもと両名から詑状などをとり、昭和十二年中大審院へ再審の申立をしたが容れられず、昭和十九年、その申立は棄却されるにいたり、かくて終戦を迎え、被告人は帰農したが、その窮乏の時代においても、いささかも不義不正に組することなく、しかも前科を隠さず、一途に寃罪を叫び続けるその声は、次第に村民の胸を打ち、隣接町村六百名にのぼる再審嘆願の署名となり、さらに法務省人権擁護部の活動をみるまでにいたつたのであつて、これまた記録上すべて明らかな事実である。

かように被告人がその逮捕当時から齢すでに八十四才の現在にいたるまで、実に半世紀の永きにわたり終始一貫、世のあらゆる苦難と闘いつつ、自己の無罪を叫びつづけてきたという厳然たる事実は、これをどのように理解すべきであろうか。世に真犯人でありながら、無実を叫ぶ者も決して少くない。しかもそのような者は、刑が確定すればいつの間にか口を閉してしまうものである。被告人のように、処刑中はもとより出所後にいたるまで、しかも全生涯、全生命をかけて半世記の永きにわたり、不断に寃罪を叫んでやまなかつた者は絶無といつても過言ではないであろう、このような恐るべき異常な粘りと迫力が、果して燃ゆるような信念に基くことなくして、単なる見栄や、欲得などから生れてくるであろうか。この真摯にしてかつ持続的敢闘の事実に目を蔽うべきではない。

第十一、被告人のアリバイの主張

被告人の本件兇行当夜の行動について、その語るところが逮捕当時から五十年後の今日にいたるまで、まことによく終始一貫していることはすでにみたとおりであるが、被告人が在監中に認めた前掲「此書は裁判調べ非理を書き」と題する手記には、この点について比較的詳細に記されている、これによると

「八月十三日夜は午後七時が職工長と交替時間なので、七時に交替したあと、風呂に入り食事をして八時過ぎに友だちと工場を出て遊びにいつた」というのである。「尺八を吹きながらぶらぶら行き、五、六丁行つた辺の神社にお参りをし、その辺で会つた友達に『若いに似あわずお参りするとは感心だ』とその人をほめて別れた」それから「一緒にいた友だちにこれから花村しづゑの家へ遊びにいこうかと誘つたが応じないのでひとりでしづゑの家へ行つた」と語り、さらに「しづゑの家の表までいくと、三人の男が腰掛けてしづゑと話しあつていたので、門のところに立つていた。三十分位の後三人の男が出てきたので花村の家の裏にまわると、三人の中の一人が顔を默つてのぞきこみにきた。自分は面白半分に身体をまわし尺八を肩にかけて立つていた。その男が立ち去つたあと暫くして花村方の前にでてみたら、三人がまだ杉の生垣の根元にうずくまつているので、また元のところに戻ると、三人がまた見にくる。こんなことをしているうちに一時間位たつた。やがて三人は北の方へ帰つていつたので、後をつけて花村方を立ち去つたが、それは三人がしづゑの働いている織屋の男かどうか気になつたからである」というのである。そして被告人のこの手記のなかには、記されていないけれども、当夜は夕立があつたようで、被告人も予審第四回訊問調書で、昨年(大正二年)八月十三日雨が降つたことを知つているかという問に対し「承知しております。花村しずゑ方へ行き様子を窺うと、男が居たから家の中へ入らずにいると、夕立雨が降りだしたから、しずゑ方の附近の人家の軒下に雨宿りをしていました」と答えている。(この夕立雨は後に詳述する同夜八時三十分から九時二十分まで降つた雨であることは確定的である)そこで被告人の右のような弁明に対し関係者がどのような供述をしているかをみてみよう。

(一)  渡辺兼三郎は予審の参考人調書(大正三年二月三日付)で「自分は渡辺兼吉硝子工場において職工長として石松を使つていたが、大正二年八月十三日石松は午後七時まで働き、夕食をすまして外出し、午後十時から十一時までの間に帰つたのであつて、その時の服装は紺絣を着て、同じ職工の伊藤庄治郎のパナマ帽を被り尺八を持ち下駄を履いていた」と供述し、被告人はその晩夕食後外出した際連れがあつたかと問われたのに対し、「同じ職工の桜井芳美は神信心をする者で、十三日午後七時半か八時頃石松と共に外出し芳美は八時か八時半頃帰宅したから、何処へ一緒に行つたかと尋ねたら、芳美の申すには、石松が『何処へ行く』と聞いたから『八王子へ参詣する』というと『俺も一緒にいく』と申し随つてきたが、参詣をすましてから八王子で石松と別れて帰つてきたと言つていました」とのべ、その夜被告人が夕食後、桜井芳美という職工と連れ立つて工場を出て、八王子神社に参詣して同人と別れていることを語つている。

(二)  また花村きとは証人として予審調書(大正三年二月四日付)で「自分は花村しずゑの母であるが、その日(大正二年八月十三日)は午後七時頃夕食をいたし八時頃急に雨が降りだしたから、平素自分方へ親類同様にして出入している堀場貞助がその友人の大野(悦次郎か)さんを連れ雨宿りをいたしておりました。そのころは大旱魃で、一時の夕立雨のため直きに雨はやみ、堀場貞助はハヤやんだと申し雨のやみ次第自分方を両名とも立ち去り、その後九時頃天神坂下の硝子屋に年季小僧をしていた幸太郎(吉田幸太郎か)と申す者が傘を返しに来てその節桃を五つ呉れ直ぐ帰りました」とのべ、当夜は夕立(夕立が降りだした時刻についてはのちに検討する)があつて、花村方へ堀場貞助とその連れの大野が雨宿りに来て、その後へまた吉田幸太郎が傘を返しに来たので、計三名の青年が当夜花村方へ出入した事実を語つている。(被告人が花村方へ前後して出入したこの三名を全部連れの者と誤認したとしても無理からぬことである)

(三)  花村しずゑも予審における参考人調書(大正三年二月四日付)で「昨年(大正二年)八月十三日、日が暮れてしまい、夕食中雨が降り出し、堀場貞助等が自分方へ雨宿りにはいつてきたのは午後八時前と思うが、夕立雨がしているうち雨宿りをしていたので、その時間は三十分か一時間位で、堀場貞助等が帰り、暫らくすると、吉田幸太郎が傘を返しに来て、桃を貰いました」とのべ、堀場貞助等は夕立が降りやむまで、三十分か一時間位も花村方にいた事実を語つている。

花村しずゑはまた、証人として当公廷において、「犯行のあつた晩ということで、その当時警察から度々来られて聞いていかれたので、いまだに覚えているのですが、なんでも時間の問題だということでした。たしか九時から十時迄の間のことですが、家にいると表の方に人の気配がするので、表へ出てみたら、前をスーといく男の後姿を見たので、その後について自分の家の横の道を通つて裏口から家の中へ入つた記憶があり、そのことは当時警察の方にも話した」旨証言しており、また

(四)  堀場貞助も証人として当公廷において「繭屋の荷車輓が殺された事件のことは当時新聞で知つていましたが、たしかにその事件のあつた晩、自分は勤務先の箱屋から家へ戻つて食事をすましてから、大野(悦次郎?)という友達と二人で花村しずゑの家へ遊びに行つた。自分はしずゑの父の世話で岐阜から名古屋へ出てきたし、当時しずゑの姉の家に寄遇していたので、しずゑ方へはよく出入りしていた。犯行の晩のことについては、当時裁判所から呼出されて調べをうけたので、その晩のことだけはいまでも覚えているが、花村方で遊んでいると、家の外で足音がして誰か家の中をのぞいた者があつたので、大野と二人で表へ出てみたら、その人は行つてしまつた記憶がある」旨証言している。

(五)  大野悦次郎も予審における証人調書(大正三年二月四日付)で「その日(大正二年八月十三日)と思いますが、堀場貞助と職場で夜散歩する約束をし、夕食後共に杉村の方へ涼みにいきました。たしか八時前後とおもいますが、えらい夕立がしたから、平素近づきの花村きと方で雨宿りをしたところ、十五分か二十分で雨がやんだので雨のやみ次第堀場と二人で帰りました」とのべ、花村方を出た際誰かと会つたことはないかという問に対し「花村方を出て南の方へ堀場と共に来る時、平素見なれない男が北の方へ行きましたから、花村方より南へ出た四つ辻で立つてながめたところ、その男は花村方の表に佇みました」と答えている。そしてその男の服装についても「黒地の着物を着し檜か又は柳でつくつたつばの下むいた帽子をかむつていましたが、手に何をもつていたかわかりません」とのべ、その帽子はパナマではないかという問に対し「人がよくパナマと申しますが、真のパナマではなく檜か柳でパナマに似せてつくつた帽子であります」と説明している。さらにその男を覗きに行つたことはないかと問われて「自分は四つ辻に立つていましたが、平素花村方へ出入りする堀場は何か心配とみえ、花村方の表へ行き、暫くして四つ辻へ帰つてきて、いま顔を覗いたが、知らぬ男だと申していました」と語つている。

以上が、被告人の当夜の行動、ことに花村しずゑ方附近における被告人の動静に関する関係者の供述であるが、これらを総合すると、被告人の当夜の行動に関する弁明は時刻に関する点を除けばほとんど完璧にちかい裏付けがあるといえよう。

そこで被告人が花村方附近にいた時刻についてであるが、この点に関しては、関係者の語るところは、当夜雨が降りだした時刻も、雨が降りやんだ時間も、被告人の言うところとかなりの相違があるので、まず当夜の気象状況につき、名古屋気象台今里能の回答書(昭和三十五年八月二十日付)をみてみると、兇行当日の大正二年八月十三日名古屋市では午後六時五十七分から同七時十二分まで、午後八時三十分から同九時二十分までで、午後十時五十分から同十一時五十分までの以上三回雨が降つていることが明らかである。ところで花村しずゑ方は愛知県西春日井郡杉村字杉であるが、同所は旧名古屋市の周辺に文字どおり接着した地区で、名古屋気象台の観測場所たる同市中区武平町から、北方わずか二粁位しか離れていないから、名古屋市とおうむね同一気象状況にあつたものとみてよかろう。しかるに、被告人が当日午後七時まで渡辺硝子工場で働いていて、職工長渡辺兼三郎にその仕事をひきつぎ、それから夕食をすまし桜井芳美と外出したことは前掲各証拠によつて疑ないから、被告人が花村方附近で遭つた夕立は、名古屋気象台の右回答書にある第二回目の雨、すなわち午後八時三十分頃から降りだした夕立であると認められる。(右気象台の回答書にも北北西の方向に雷鳴があつた旨の記載がある)してみると、その夕立雨の降りだした時刻について前記のごとく、花村きとは午後八時頃と言い、花村しずゑは午後八時前とのべまた大野悦太郎は午後八時前後と言つていて、同人等の表現に多少の相違はあつてもほぼ八時頃と一致した供述をしているけれども、これには約三十分位の時間のずれがあつたことがわかる。したがつて被告人が午後八時頃工場を出て五、六丁離れた八王子神社に参詣し、そこから数丁位の花村方附近にいたつて、屋内の様子を窺ううちに夕立雨に遭つたという被告人の供述こそ、時間的にももつとも事実に適合しているようにおもわれる。

さらに夕立雨が降りやんだ時間についても、前記のごとく、関係者の供述は帰一しないのであるが、前掲名古屋気象台の回答書によると、当日の第二回目の雨は午後九時二十分降りやんでいることが認められる。堀場貞助等はこの夕立雨が降りやんですぐ花村方を辞していることが、前掲各関係者の供述によつて窺われるから、被告人が花村方から出てきた堀場貞助等に、その附近でいき会つたのもその時刻の頃とおもわれる。堀場貞助等が帰つてから暫くして、吉田幸太郎が花村方へ傘を返しに来ていることも前掲各関係者の供述によつて窺われ、その来訪の時刻につき、花村きとは前記のごとく午後九時頃とのべているが、さきに触れたようにその供述には全体的に約三十分位の時間のずれがあるところからみて、それは午後九時三十分頃であつたと認めるのが相当であつて、被告人は花村方に当夜出入した三人の青年を見かけているのであるから、被告人は少くとも午後九時三十分頃までは花村方附近にいたものと認められる。

しからば本件犯行の推定時刻は何時頃であろうか。

本件の予審請求書には大正二年八月十三日「夜」とあるのみであるから、十三日夜の何時頃の犯行と推定されていたかは明らかでないが、第一、二審判決までもこれに追随し、予審請求書とまつたく同様八月十三日「夜」という漠然たる認定をしている。しかしながら本件は被告人が当夜の行動について、つよくアリバイの主張をしている微妙な案件であるだけに、肝腎の犯行の時刻について、このような漠然たる認定がなされていることにはいささか奇異な感がもたれる。それでは、本件においては犯行の時刻の認定にそれほど困難な事情でもあつたのであろうか。ところが本件は犯行の時刻の推定のむしろ稀にみる、きわめて容易な事案である。すなわち

尾張電鉄会社運転手青山春蔵、同じく事掌永田栄三郎の両名に対する警部の各聴取書(いずれも大正二年八月十四日付)によると、右青山、永田の両名は大正二年八月十三日午後九時四十七分頃今池の終点を発車し南進して車庫に入つたが、その途中今池を去る南方約三丁位の地点で、軌道の東側からわずか六尺位のところに荷車が一台放置されその上に籠がのせてあるのを見かけており、ことに青山運転手はその荷車の西方に人が倒れているのを認めたが、酔払いが寝ているぐらいに思つて停車せずそのまま通過している。しかしこの電車がその前に今池へ向つて北進(大久手電停を?)したのは午後九時三十八、九分であつて、その時は両名とも右現場の軌道附近に何等異状を認めていない。そして今池で折返す際は五、六分間停車して南進したというのである。青山運転手が認めた軌道附近の傍に倒れていた男が被害者戸田亀太郎であつたことは言うまでもない。してみると、本件犯行の推定時刻は大体午後九時四十分から四十五分迄の間であることがきわめて明瞭である。

ところで被告人が附近をぶらついていた花村しずゑ方は渡辺兼吉方硝子工場の北方数丁位の地点であるから、そこから本件犯行現場までの距離は昭和三十二年(お)第二号再審事件における当高等裁判所第三部の検証調書によると、大約四粁余と推認せられ、当時この間をむすぶ適当な交通機関がなかつたことは当裁判判所に顕著である。そうだとすると、午後九時二十分夕立が降りやみ、花村しずゑ方を辞去した堀場貞助等と同家附近でいきあつている被告人が、夜間、当時の田舎道をどんなにしても、午後九時四十分ないし四十五分頃までに四粁余を距てた本件犯行現場にいたることは、とうてい不可能といわねばならない。まして被害者亀太郎は先きに触れたように、丸兵という繭問屋へ繭を荷車で運搬した帰途、偶々萱場へ行こうとして難に遭つた通行人であるから、同人の通りがかるのを見かけた附近の番小屋に住む芳平、庄太郎の如き者ならば、共謀して犯行をなすことも容易であるが、当時のような交通の未開の時代において、四粁余を距てた場所にいる被告人と、共同謀議をとげ実行行為を分担しうる余地のあろう道理がない。

第十二、古田鑑定の重要性

名古屋大学法医学教授古田莞爾は再審公判において鑑定人として、現代法医学の立場から前掲谷宝抱、小野瓢郎両鑑定人の各鑑定書について検討を加えた結果、つぎのような注目すべき鑑定をしている。

(一)  鑑定人谷宝抱の前掲鑑定書における、被害者亀太郎の頭部の(イ)、(ロ)、(ハ)、(ニ)の四つの傷は、玄能と尺八の何れでもできる可能性のあることは否定できないが、法医学的にはこの両者が使用されたのではなく、そのうちのいずれか一つが兇器として使用されたものと考へるのが相当である。しかして右のうち(ハ)の傷は、その内部が骨折して鵞卵大の陥没を生じていることからみて、尺八よりは玄能による傷と考えるのが適切である。

(二)  被害者が玄能で頭部を殴撃され倒れたような場合、その直後は血圧も高く、血液は傷口から噴きだし、相当とおく飛散するので、引き続きその頭部を尺八で殴打すれば、尺八には血液が当然附着するし、その犯人の着衣にも血液の飛沫がつくものと考える。

(三)  鑑定人小野瓢郎の前掲鑑定書における、証第十六号の着衣(被告人の)に附着せる「人血に基因する一小斑点」については、まずその小斑点の大きさは、右鑑定書の記載からは判然としないが、該斑点から血球がわずかに四個しか検出されなかつたということからみて、それはよほど小さな斑点であつたと解する外はない。

またその血球四個の大きさは七、七ないし七、八「ミクロン」(一耗の千分の一)とあるから、人の血球の大きさ六、五ないし九、五「ミクロン」平均八「ミクロン」に近似しているが、哺乳動物一般ことに犬の血球の如きは七ないし八「ミクロン」平均七、五「ミクロン」であるから、これだけの資料では人血に基因するものと必ずしも断定できないというのである。

ところで、本件被害者の頭部の(イ)、(ロ)、(ハ)、(ニ)の四つの傷を与えた兇器が、右古田鑑定が(一)の前段においていうように、玄能と尺八のうちのいずれか一つであるとするならば、右四つの傷のうちに芳平の玄能の殴撃に因る傷が含まれていることは(一)の後段を俟つまでもなく疑ないから、尺八は兇器ではあり得ない道理である。もしまた、仮に芳平の玄能による殴撃の後被告人が、さらに尺八で同じく頭部を殴つたとするならば、右鑑定の(二)のいうように、まず第一にその尺八に血液が附着するはずであるが、前掲小野鑑定によると証第十四号の尺八には汚点はついているが人血に基因するものではないことを明らかにしているので、人血が附着した形跡はなかつたものと認められる。第二に被告人の着衣にも被害者の血の飛沫がつくはずであるのに、その着衣たる証第十六号には、前掲谷鑑定のいう人血に基因する一小斑点のほかには、全然血液の附着した形跡がない。その上、右古田鑑定の(三)の後段によると、その小斑点が果して人血に基因するものか否かについても、なお多少の疑があるのみならず、それは九つもついていたという汚点のなかのたつた一つの、しかも同鑑定の(三)の前段のいうような極小斑点であるから、それが血の飛沫でないことはほとんど疑いない。

してみると、本件被害者の頭部に、(イ)、(ロ)、(ハ)、(ニ)の四つの傷を与へた兇器たる、谷鑑定のいわゆる「相当重量を有する鈍体」というのは、玄能だけであつて尺八を含むものでないことが認められる。

第十三、結論

本件は以上みてきたところを総合すると、芳平、庄太郎両名の共同犯行と認むべきものであつて、すなわち、芳平が検事に対する第一回の被告人訊問調書において、庄太郎との共同犯行について語つたその自供こそ、もつとも真相にちかいものであつたといわねばならぬ。芳平のこの自供はその内容よりするも、自白の経緯からみても、将又他の関係各証拠と対比しても、十分に措信するに足るものであつて、その後右自供を飜えし三人犯行を主張するにいたつた芳平の供述や、変転つねなき庄太郎の供述がとうてい措信するに値しないことはすでにみたとおりである。

それにも拘らず、しからばどうして本件が当時被告人を含む芳平、庄太郎との三名の共同犯行として起訴されるにいたつたかについて一考しておくことにする。

芳平の検事の取調ににおける当初の自供は、右のごとく庄太郎との共同犯行を肯定するものであつて、信憑力のたかい供述であつたが、一方巡査藤井勇城ほか四名の捜査報告書にある荷車輓を含む三人連れのうちで、その車輓や吶弁の男より先きに行つた男というのが、芳平の右自供からはついに解明されなかつた。そのためこの先きに行つた男も共犯者ではないかという疑問がまず捜査官の脳裡を去来したとしても当然である。そこで犯行を否認していた庄太郎に対しきびしい取調が行われるうちに、性来の嘘つきの庄太郎は取調官のもつていたこうした疑問にうまく迎合便乗して石ヤンなる者をもちだして、捜査官に大きな予断をもたせてしまつたのではなかろうか。庄太郎とて恐らくは何の恨もない被告人を、始めから無実の罪にひきいれようと企んでしたことではなかろう。庄太郎としては自己の犯跡をくらますために架空の人物を必要とし、そこで突嗟に口をついて出たのが石ヤンという名で、石ヤンが主謀者のように弁解したのである。そのため庄太郎は石ヤンの住所も氏名も知らないと言い張つたのである。ところが偶々芳平が石ヤンという名を聞き知つていて、魯鈍であつても悪智恵のはたらく同人は、庄太郎が石ヤンをもちだして弁解していることを取調の中から察知するや、自己の刑責を軽からしめるために、にわかに先きの自供を飜えし、庄太郎と口を合せて石ヤンが主謀者のような弁解をするにいたつた。かくて石ヤンと呼ばれていた被告人が逮捕の憂目をみるにいたつたのであるが、こうなると芳平、庄太郎の両名は、いまや騎虎の勢で互にその刑責を軽くしようとして、競つて自分等のした行為を遂次被告人に転嫁するがごとき弁解をなすにいたつたものとおもわれる。一方被告人の居室からは不運にも、血痕のようなものの附着した兇器の疑ある尺八や、同じく血痕の疑のある汚点がいくつもついている着衣が発見されるに及んで、捜査官の予断は倍加したのではなかろうか。そこへもう一つ被告人のため不幸であつたのは、被告人のアリバイの主張も、花村しづゑ方へ遊びに行つたというのではなく、その附近をぶらついていたというだけのものであつたため、アリバイが必ずしも十分に成立しなかつたことである。これらの事情が相俟つて被告人の訴追をみるにいたり、わが裁判史上曽つてない誤判をくりかえし、被告人を二十有余年の永きにわたり、獄窓のうちに呻吟せしめるにいたつたのであつて、まことに痛恨おく能わざるものがあるといわねばならない。

以上の次第であるから、被告人に対する本件公訴は結局犯罪の証明なきに帰し、旧刑事訴訟法(大正十一年法律第七十五号)第五百十一条第三百六十二条、第六百十六条第一項、現行刑事訴訟法施行法第二条に則り無罪の言渡をなすべきものとする。

ちなみに当裁判所は被告人否ここでは被告人と云うに忍びず吉田翁と呼ぼう。吾々の先輩が翁に対して冒した過誤を只管陳謝すると共に実に半世紀の久しきに亘り克くあらゆる迫害に堪え自己の無実を叫び続けて来たその崇高なる態度、その不撓不屈の正に驚嘆すべき類なき精神力、生命力に対し深甚なる敬意を表しつつ翁の余生に幸多からんことを祈念する次第である。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判長判事 小林登一 判事 成田薫 判事 斎藤寿)

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